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公衆衛生医からのエッセー
「効いた」ということ

公衆衛生医師 JINNTA 

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 ■宣伝のチラシを見るとすごく効きそうだが…

 この原稿を書いているまっただ中、「健康食品」で肝障害が起こるなどの被害が出ている。この種の「薬」が流行するわけについては別の機会にでも書くとして、薬でも食品でも癒しグッズでも何でもいいのだが、これが「効いた」というには、どうしたらいいだろう。宣伝のチラシを見ていると、何でもすごく効くように思われるが・・・・・・・・・
 何らかの方法が、「効いた」というには、たとえば以下のような現象ないしは証拠があることが求められるであろう。[表参照]…などがあげられようか。他にもいろいろあるかもしれない。

<1> 使った本人が使う前より幸せになるとか満足を得ること
<2> 効果が科学的に実証されること
  (1) 使ったグループ(使用群)と使わないグループ(対照群)で効果の比較をすること
    (a) 使用群と対照群で、主観的な「満足感」とか「効いた」という感覚に差があること
    (b) 使用群と対照群で、客観的な指標で差が見られること
  (2) その物質などが、実験室的に効果があるという結果が出ること
<3> かけた費用や労力が、効果に見合うようなものであること

 ■求められる<1>〜<3>の現象ないし証拠

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト 薬はもとより、多くの「健康食品」は、このうちどのような現象ないし証拠が得られるであろう。
 上記の<2>の(2)を掲げているものは結構あるのだが(たとえば試験管内の実験でガンが消えたなど)、よく新聞の折り込みチラシに入っている「○○さんの体験記」は上記のいずれにも当てはまらない。
 ここでは上の<1>〜<3>について、やや辛口の解説を加えてみよう。

<1>使った本人が使う前より幸せになるとか満足を得ること
 これは、科学的に証明することは難しいが、絶対に必要である。病気を克服して生活をよりよくすることは人生の目的かもしれないが、病気を克服すること自体は人生の目的ではないからである。
 手術は成功したが患者は死んだなんて話があるが、あまりに犠牲を払うような方法はいくら身体によくても人生の質がいいとはいえない。さらに、「身体にいい」といわれる方法というのは、結局いいかどうかは確率の問題である。従って、思うような効果が得られない場合、あまりに犠牲を強いる方法は一定の割合で燃え尽き者を生むのである。

<2>効果が科学的に実証されること
(a)使用群と対照群で、主観的な「満足感」とか「効いた」という感覚に差があること
 これは、将来的にはおそらく究極的な評価であろう。というのは、医者を選ぶにしても、薬や健康食品をとるにしても、満足感が得られることが重要だからで、それを実証するにはこのような集団で比べることが有効だからである(疫学的方法であるが、詳しいことは?で後述する)。ただ、人によって感覚は違うので、この話をすると「科学性がない(ことはないのだが、理解されにくい)」とぶった切られることが多い。主観的な感覚を客観化する方法の開発が重要である。多分、10〜20年後には、市民権を得ているであろう。

(b)使用群と対照群で、客観的な指標で差が見られること
 3段論法という話を、中学校か高校かで聞くのだが、この3段論法式に、「使った人が病気が治った、だからこの薬は病気に効く」というのは誤りである。というのは、「使った人が病気が治った、だからこの薬は病気に効く」は、以下の3つの場合があるからである。

a.使った方が、使わない方よりもよく治った
b.使っても使わなくても同じくらい治った
c.使わない方が、使った方よりもよく治った
※必ずしも治った、というわけではなく、治りが早い、とか、治りの程度がいい、というのが普通用いられる

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト aなら、「この薬は病気に効く」といっても、誰も文句はいうまい。しかし、bの場合は、別に使わなくても治ったんなら、「この薬は病気に効く」とはいえないわけで、cに至っては、かえって害をなしているわけである。しかし、「使わない」という比較をしない限り、表面には、いずれも「治った」ということと「薬を使った」という事実しか現れてこない。こういう比較をすることを比較対照試験(コントロールドスタディ controlled study)と称する。
 かつて、高橋晄正氏は「使った人が病気が治った、だからこの薬は病気に効く」という誤りを、3段論法ならぬ「3た論法」と称されたが、なかなかいいネーミングだと感心したものである。
 現在は、「健康にいい」「治る」というためには、この<2>の(1)の(b)を証明することが求められている。薬では、二重盲検法(ダブルブラインド法)として有名である。健康事象に対して証明するのは、介入研究(コントロールドスタディ)や観察研究(コホートスタディ、患者-対照研究)によるが、健康事象は複雑な要因の組み合わせによって成り立っており、病気がある場合の治療効果に比べて客観的に判定することがそう簡単ではなく、なかなか証明は困難である。
 さて、効いた効かないの比較の話をしたが、実はどれだけの人が「治ったか」ということを比較しているわけである。しかし、そもそもどれだけが治って、どれだけが治らないかの実態は重要である。

a.治療法A  80%治った
  治療法B  60%治った
  何もしない 30%治った

という場合と、

b.治療法C  20%治った
  治療法D  5%治った
  何もしない 0.5%治った

という場合では、aだと治療法Aはかなりいいという話になるが、bだと、治療法Cでも8割は治らないということになってしまう。従って、比較の問題だけではなく、こういう治る確率そのものも評価が必要である。
 ここで、「何もしない 0.5%治った」というのがあるが、「がん」でも場合によってはこういう話があるのも事実である。自然治癒というのは結構あるらしく、「○○さんの体験記」は、その食品が他の方法よりも優れている場合もあるかもしれないが、食品とは関係ない200人に1人の幸運な人だった、という場合もあり得るのである。だから、「○○さんの体験記」は宣伝には使えても、証拠には使えないのである。

<JINNTAさんの著書>
生草医者のひとりごと〜おちこぼれ公衆衛生医のエッセー
『生草医者のひとりごと〜おちこぼれ公衆衛生医のエッセー』(保健計画総合研究所刊 税込\1,575)
(2)その物質などが、実験室的に効果があるという結果が出ること
 こういうものを実験室的な証拠という。因果関係というものをあらわすよい証拠であるが、因果関係と「治った、治らない」は実は別物である。「治った、治らない」は上記の<2>-(1)(b)でみるように、確率で対照と比較しなければ意味をなさない。一般に上記の<2>-(1)(b)が証明された場合に、その傍証として理由付けをするのに役立ったり、薬などでは、実験室的に効果があるものを実用化する際に上記の<2>-(1)(b)を行うのである。

<3>かけた費用や労力が、効果に見合うようなものであること
 公共投資によって行われる場合は別だが、私的に利用する場合は「かけた費用や労力」というものはかなり主観的なものである。また、金をかければよくなったという気分になるし、また、金をかけて買うことが、幸せ感や満足度を増す場合があることも否めない。しかし、通常の治療法ではなかなか治りにくい病気の場合は、足元を見られて、ふっかけられている場合もあるだろう。また、幸せ感はその利用した食品などに由来するのではなく、実は宗教的背景が存在している場合も少なくないだろう。現に、健康食品的なものを販売している宗教団体は多いようである。spiritual healthという概念があるくらいだから、宗教は健康状態にかなり作用すると思われるので、それはそれで、健康食品などとはわけて評価する必要があるのかもしれない。

[JINNTA/公衆衛生医師]
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