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薬害エイズ被害者の抱えるジレンマ

草田央 

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 2000年2月24日、ミドリ十字の歴代三社長に実刑判決が言い渡された日、(この刑事事件の被害者ではないが)薬害エイズの被害者の一人である川田龍平氏はマスコミの取材に対し「ミドリ十字が人を殺し、吸収合併した吉富製薬がHIV治療薬を販売してもうけていることは許せない」との発言を繰り返した。おそらくゼリットカプセル(d4T)のことを指しているのだろう。日本ではHIV感染者が少ないため、抗HIV剤の販売では一般に利益が出にくく、販売の引受先もない。それゆえ被害者救済の観点から、被告ミドリ十字が販売を引き受けた経緯があった。それも昨年には、製造元のブリストル・マイヤーズ・スクイブ社の名義に変わっている。

 的外れな批判をしながらも薬を飲んでいる人はいいとして、「ミドリ十字の薬なんか飲めない」として自ら選択肢を狭めていた被害者もいたようだ。自分たちの運動の成果として飲めるようになった薬を自ら拒絶する……今回は、そんな被害者たちが抱えるジレンマ(矛盾)にスポットを当ててみたい。

 ■新薬の早期認可と薬害再発防止のジレンマ

 「アメリカで認可された薬を一刻も早く日本でも飲めるようにしてほしい」……被害者たちのそうした要求は、以前からずっと続いている。特に薬害エイズの被害者たちの感染時期は古く、今まで飲み続けてきた薬に対する耐性を持ってしまっている者も多い。次々と新しい薬を入手しなければ命を永らえることができない……そんな事情もある。そうした被害者らの要請を受けて、和解成立後は拡大臨床試験、研究班での新薬輸入、希少薬としての推進、特例ともいえる迅速な審査と早期認可の手が次々と打たれてきた。

 しかし、アメリカで認可されているとはいえ、それは必ずしも安全性を保証していることにはならない。FDAでの認可が厳しいような印象が持たれているかもしれないが、基本的にFDAは申請されたものを認可する方針を持っている。アメリカでも新しい抗HIV剤への社会的要望が強いため、安全性の確認より認可が優先されている事情もある。

 薬害の再発防止という観点に立てば、新薬の認可は慎重の上にも慎重を重ね、その安全性を十分確認してから……という主張にならざるを得ない。和解成立前の一九九五年、被害者らの新薬の早期認可を求める要望書への賛同をHIV訴訟を支える会が断らざるを得なかったのは、そうした立場による。薬害の再発防止は、もちろん被害者らの願いでもある。けれども、薬害エイズの被害者らは新薬の開発を待ち続ける難病患者の立場でもあるのだ。結果、薬害の再発防止とは矛盾する要求を掲げざるを得なくなっている。

 ■加害者の製剤を使用し続けなければならない

 和解成立前の一九九五年、被告企業への不買運動が拡がり、一定の成果をおさめたと言えよう。不買運動は、私も以前より提案していたことではあったが、次の二点から実行が難しいとされていた。

 一つは被告企業の製品に消費者が直接薬局などで購入できるような大衆薬が少なく、病院で処方されたり使われたりする医薬品が多かったこと。つまり、医療消費者に直接的な選択権がないような商品が多いと考えられたことである。

 そしてもう一つが、被害者である血友病患者が被告企業の血液製剤を使い続けなければならないことであった。

 血友病A患者向けの第八因子製剤に関しては、現在、日赤が大きなシェアを持っている。が、日赤は被告ではないとは言え「間接的加害者」とでも言うべき立場。それに日赤は、その他の被害者である血友病B患者向けなどの製造は行なっていない。

 最近シェアを急激にのばしている遺伝子組み換え製剤は、被告バクスターとバイエルによるものだ。  薬害エイズに関して無垢の血液製剤メーカーが存在しない現状では、当の被害者らが加害者らの血液製剤を使用し続けなければならない。そうした被害者らの二律背反な心情は、血液事業案での国営化論などにも通じているのだろう。

 しかし、国とて被告であり加害者なのだ。いわば、総不信とでもいう状況下で、薬を使い続けなければならない状況にある。

 ■国に対する不信と期待

 国に対する不信と期待は、民事裁判中でも指摘されていた。被告国は加害者として糾弾すべき相手であると同時に、厚生行政の担い手として救済を求めるべき相手でもあったのだ。民事裁判が係争中、厚生省への要請行動を行なった際、最後に被害者らが厚生官僚に「どうぞよろしくお願いします」と深々と頭を下げたのを見て、愕然とした思いがある。

 裁判所の和解勧告での賠償金の負担割合は、製薬企業六割で国が四割、製薬企業に第一次的責任があるとされている。しかし和解成立後の要請や交渉は、専ら厚生省ばかり。厚生省の責任を追及する勇ましい掛け声が聞こえていても、それは期待への裏返しでもあるのだ。

 逆に言えば、「自分たちを守ってくれると期待していた」国に裏切られたとの強い憤りもある。それは、被告となっていない医師に対しても言えることで、遠い存在に感じられる製薬企業に対する怒りよりも強いと言えるだろう。

 責任割合と、被害者の怒りや期待が必ずしも一致しているわけではないのである。

 ■安定供給と安全性確保の両立という目標

 厚生省で検討されている薬害エイズを教訓とした血液事業の再構築では、最大限の安全性確保と同時に安定供給も目指すとされている。

 日常的には両立をはかっていくことが重要だが、この両立が難しい特殊な状況下で生じたのが薬害エイズであった。結果、安全性の確保より安定供給を優先してしまったことが薬害エイズの原因と言える。

 薬害エイズの反省に立てば、突発的な危機的状況が生じ安定供給と安全性の確保の両立が難しくなった場合、できるだけの代替措置を模索し供給を確保しつつ、最終的には安全性の確保を優先し安定供給の犠牲も甘受すべしということになる。それぐらい大胆な方針を掲げなければ、抜本改革は成し遂げられないだろうと個人的には考えている。

 なぜなら、薬害エイズのときのような不確実な危険性が生じた場合、安定供給と安全性の確保の両立を目指せば、必ず安定供給を優先させる結論に至ってしまうからだ。

 しかし、当時の血友病団体の安全性確保に関する要望書のなかでも安定供給が要求されていたように、難病の医療消費者である血友病患者らにとって、血液製剤の安定供給は外せない課題である。ある程度の消費量がある第八因子製剤でも、広く使われているアルブミンと比べれば希少医薬品である。他の血友病類縁疾患用の特殊な血液製剤など、市場原理だけでは、いつ供給がストップされてもおかしくはない。患者団体には安定供給を叫び続けなければならない宿命がある。

 そこで、安定供給と安全性確保の両立という目標になってしまい、その両立が不可能になった場合のリスク・マネジメント(危機管理)という議論に入れないでいるように私には思えるのだ。

 最大限の安全性確保と安定供給を目指す結果、結果として(例えばクリオ製剤などの)代替措置の淘汰が進められ、むしろ血液市場は寡占化が進み、かえって突発的な危険の発生に弱くなってきている感じすらある。

 ■郡司篤晃氏をめぐる複雑な背景

 元厚生省生物製剤課長の郡司篤晃氏に対する被害者らの非難の声があるが、これも複雑な背景を背負っている。

 郡司氏は、民事裁判で被告側の証人であったと同時に、原告側の証人でもあった。原告側の弁護士との事前打ち合わせでも協力的で、国の主張にも配慮しつつ、ある程度、国の責任につながる証言をした人物と言えるだろう。偽証罪での告発は受けたが、不起訴となり刑事被告人とはなっていない。

 その後の真相究明にも積極的で、厚生省から入手した資料を自ら検察に提出もしている。昨年七月四日に放送されたNHKスペシャル『薬害エイズ16年目の真実』で、郡司氏は(番組では一切触れられなかったが)未公開資料をわざわざ検察から取り寄せ持参までしている。

 厚生省への検察の立入調査で見つけ出された第一回エイズ研究班の録音テープのなかで、郡司氏は相当な危機感を持って対策の必要性を訴えている。

 少なくともヒーローとされているアメリカでのドン・フランシス博士のように、「机を叩いた」者の一人だと言えるだろう。郡司氏が真相究明に積極的なのも、個人的にはできるだけのことをやったとの自負があるのだろう。それでも、結果としては郡司氏の危機感はかき消され、国は有効な対策を取れずに終わった。郡司氏も権限を持った当時の担当者として、結果責任を問われる立場にはあると考えられる。

 そうした郡司氏に対する非難を繰り広げ始めたのは、民事裁判での和解のテーブルに国を引っ張り出すための戦術でもあった。製薬企業の責任はある程度認められることが想定されており、問題は国の責任が認められるかどうかであった。

 前述のように、医療や福祉などの救済措置を考えた場合、国がその権限を握っている。その国に責任を認めさせなければ、(たとえ製薬企業から賠償金を勝ち得たとしても)真の救済につながらないと考えられていた。それゆえ、第一次的責任があるはずの製薬企業より、国の責任をターゲットとしたのである。

 しかも、その後刑事被告人とされた後任の松村氏では、被害者らの感染時期や過失基準時の問題から全員救済につながらない。全員救済のためには、郡司氏の在任期間の責任を問わなければならなかったのだ。

 それが現在にも尾を引いていると言わざるを得ない。

 ■刑事裁判が進むほど矮小化せざるを得ない

 民事裁判の和解だけで終わらず刑事裁判にまで至ったことは画期的なことだった。けれども、刑事裁判では民事裁判より厳格さが求められる。被害者とされたのは、極めて特殊な事例の被害者のみとなった。刑事裁判の争点とされているのは、すでに多くの被害者が感染してしまった後の、一九八四年から八五年の時期だ。刑事裁判が進めば進むほど、薬害エイズ全体の構造は矮小化していかざるを得ない。多くの被害者たちにとって「あなたの感染は仕方がなかったのだ」と言われるにも等しい結果になりかねなくなる。

 薬害の再発防止のための真相究明にしても、その結論は冷静で客観的、学問的分析でなければ有用ではない。たとえば、加害者側が、なぜそのような選択を行ない、どうしてそのような行動をとり、もしくは行動しなかったのかを合理的に突き止めなければ、再発防止につながらない。

 しかし、加害者の側の心情や行動を理解しようなどという態度は、被害者らにとって許されざるところであろう。

 ■「なぜ感染しなければならなかったのか」

 被害者らにとってこの悲劇は、人間にあるまじき理解不能な行為によって生じたものでなければならない。「なぜ自分らが感染しなければならなかったのか」という疑問は、被害者らが被害を受容するために必要とする強い欲求だが、同時にその合理的な回答は、被害者が怒りをぶつけることを妨げてしまう。結果「真相はわからない」と永遠に叫び続けなければならなくなってくる。

 ■心の救済のための真相と再発防止のための真相

 「血友病患者をウイルスの培養地として利用するために、わざと感染させたのだ」などという突拍子もない陰謀説を唱える人がいる。それが一般の人にどんなに奇異に思えるものであっても、合理的に否定できる根拠があっても、それを信じてしまう被害者もいる。そこまでいかなくても、お金のために大きな政治力が働いて、自分らが感染するハメに陥ったと考える被害者は多い。

 利益目的の要素が多少なりともあったのは事実だろう。しかし、刑事裁判で出てきている金額は、噂されていた金額と桁が異なり、小さなものに過ぎなかった。「まだ明らかになっていない大きな陰の力が働いたに違いない」被害者らは、そう考えている。

 もしかしたら明らかになっていない様々な陰謀があったのかもしれない。しかし、その証拠は何一つない。証拠もないのに「あったはずだ」と騒ぎたて続けるのは、今となっては単なる幻想に過ぎず不毛なだけだ。そして、すでに明らかになっている様々な事実から、逆に目をそらすことにつながってしまっている。

 真相究明で明らかになってきたもののなかには、必ずしもすべての情報が隠蔽されていたわけではないこと、有効な対策が取られ一部の人を救うことができたとしても全ての人の感染を防げたわけではなかったこと(救えたハズの一部の人たちを救わなかったことが問題なのだが)等など、被害者らが受け入れがたい事実も多い。

 被害者らが求めているのは、心の救済のための真相であり、E・キューブラ・ロスの言うところの「衝撃と否認、怒り、抑鬱、取り引き、受容」に必要とされる真相であると言えよう。そしてまだまだ多くの被害者(特に遺族)が、癒されない思いを抱いていることは重要だ。

 しかしそれは、再発防止のための真相とは必ずしも一致しない。社会が求めているのは再発防止のための真相であり、少なくとも真相究明の唯一の動機を持つとも言える被害者らは、社会の期待にも応えなければならないと考えている。

 それがますます被害者らを追い込んでいるように見える。

 ■からまった糸を解きほどいていく作業が必要

 エイズは様々なタブーに囲まれ、本音とタテマエが交錯する。それにかかわる人々も、自分のなかに相矛盾する感情や立場を抱えている。が、それが事態をより複雑にし、混乱に導いている気がする。一つ一つからまった糸を解きほどいていく作業が必要だ。そのための問題提起にでもなれば幸いである。

 もちろん私の描いた被害者像も、画一的・一面的なものでしかない。実際は多種多様な被害者がいる。

 「そんなことはない」「私は違う」との御批判は、甘んじて受けなければならないと考えている。

  [草田 央]
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