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感染症予防法案への疑問

草田央 

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 エイズやエボラ出血熱のような新しい感染症(新興感染症)、結核などのように再び勢いを増してきた感染症(再興感染症)を背景に、国際的には世界保健規則の改正論議、国内的にはO157(腸管出血性大腸菌感染症)対策を契機として、感染症対策が急務となってきた。1996年6月30日までに、厚生省は伝染病予防法を100年ぶりに改正し、エイズ予防法など関連法を廃止・統合する方針をまとめ、7月2日に公衆衛生審議会へ提案した。
 公衆衛生審議会の伝染病予防部会で一年以上の審議が行なわれ、昨年(97年)12月8日に「新しい時代の感染症対策について」と題する報告書がまとめられた。今年(98年)2月3日には厚生省が感染症予防法案(仮称)制定要綱を提示し、3月にも国会に法案が提出され、この文章を皆さんが読まれている頃には、国会での審議が始まっているのではないかと思う。
 これを書いている段階では法案が提示されているわけではないので、感染症予防法案の詳細は不明だが、制定要綱で概略は明らかとなった。そして言えるのは、エイズ予防法と同様、感染症予防法案が奇々怪々であるということだ。感染症の拡大防止には、何の役にも立ちそうにない。
 そこで、いくつかの疑問点を提示し、だまされないための参考にしていただきたいと思う。なお、ニュースレター9号に書いた『エイズ予防法とは』もあわせて読んでいただけるとありがたい。

 ■国際保健規則改正前になぜ国内法を制定?

 現在WHOで国際保健規則の改正作業が進められており、来年(99年)五月のWHO総会に提案される予定である。「WHOの主要参加国である日本が、百年前の伝染病予防法を抱えていたのでは恥ずかしい」と厚生官僚が考えたかどうかはわからないが、厚生省が国際保健規則改正を意識していることは確かだ。しかし、国際保健規則改正の論議をCDCの論文などから読み取ると、国際保健規則改正前に国内法を制定しようとすることのおかしさが浮かび上がってくる。
 たしかに国際保健規則改正への動きは、新興感染症や再興感染症対策の必要性から出ている。現行の国際保健規則は、コレラ/ペスト/黄熱病しか対象にしていなかったのだ。その点では、我が国の伝染病予防法改正の視点と同一のものだ。しかしながら、改正により何を獲得しようとしているのかという点になると、WHOと日本とではニュアンスが大きく異なる。
 現行の国際保健規則は、コレラなど三疾病しか対象となっておらず、なおかつ強制力を持たなかった。そのため、各国が独自の法規制を行なってしまった。例えば、一九九一年のラテンアメリカで起きたコレラ騒動では、ペルーが輸入・入国規制を行なってしまっている。一九九四年のインドでのペスト騒動では、インドからの輸入・入国を規制する国が続出した。エイズでは、日本のエイズ予防法のように、入国規制を行なう国が出た。新型インフルエンザ騒動でも、中国や香港からのニワトリの輸入禁止や旅客の検疫強化に乗り出す国が相次いでいる。各国が独自に過度の対策を取り始めると、自国の経済的不利益を回避するため、どの国でも適切なサーベイランス(疫学情報の収集)を行なって情報公開をすることを嫌うようになってしまう。そうすると適切な感染症対策も行なうことができなくなり、諸外国も疑心暗鬼に陥り、ますます過度の規制を行なうという悪循環に陥ってしまうと考えられている。
 つまり、国際保健規則の改正は、各国が独自の規制に走らないようにし、情報公開のもとで各国が協調して感染症対策を行なっていこうというものなのだ。感染症予防法案により、我が国独自の規制をつくろうとするのとは正反対の目的だということだ。したがって、少なくとも国際保健規則が改正されるまで国内法の制定は待つというのが筋というものだ。我が国としては、国際保健規則の改正に積極的に尽力し、WHOで改正案が採択された後は、国内法を国際保健規則に準拠するよう改正するべきなのではないだろうか。

 ■就業規制でOー157は予防できるの?

 一昨年のO一五七騒動で、厚生省は伝染病予防法の指定伝染病として感染者の就業規制を行なった(就業規制そのものは、伝染病予防法の適用前から健康政策局計画課長・エイズ結核感染症課長・食品保健課長の3課長の連名で指示されていたものである)。今度の感染症予防法案でもO一五七は「三類感染症」に分類され、特定職種への就業制限が行なわれることになっている。
 しかし、感染者が就業していることによってO一五七の感染が広まったという話は、ついぞ聞いたことがない。また、伝染病予防法が適用されたことによって、感染拡大が食い止められたとする見方もない。
 もはや日本の常在菌となっているO一五七で、あれほどの被害を生じさせた大きな要因の一つは、給食制度という同一食材の広域・大量消費であろう。視察に訪れたCDCの職員は、日本の給食制度を知って「クレイジーだ」とつぶやいたという。感染症の危機管理において、広域・大量消費ほど無防備なことはない。しかしながら、O一五七を契機とした伝染病予防法の見直しであったはずなのに、同一食材の広域・大量消費については、議論にすらなっていない。
 O一五七の教訓は、まだある。原因究明の遅れである。感染症の危機管理においては、迅速な初動調査が必須なのである。O一五七では、この初動調査に失敗したため、カイワレ大根説は浮上したものの、今もって原因は特定されていない。感染症予防法では積極的疫学調査により原因究明を行なうことを明記しているが、後述の理由から機能するとも思えない。食材の監視体制を強化しようとの動きもない。また、治療体制や治療情報の遅れも指摘できる。O一五七では、エイズのときと比べれば健闘したとも言えるかもしれないが、それまでに存在したO一五七に関する数多くの知見が、迅速に活かされたとも言えない。これについても感染症予防法案は、具体的な対策を何も提示していない。
 O一五七騒動は、かつてのエイズパニックと同様、感染者への甚大な差別と偏見をもたらしている。もし法律の適用が必要だとしたら、差別や偏見にさらされている感染者を保護することにある。伝染病予防法が適用されなくても、感染者の就業は管理者の自主的判断及び行政の指導によって、過度に規制されていた。本来は就業制限の必要のない保母さんの就業まで制限されたのだ。仕事を休んでも解雇されない、もしくは解雇でなく一時的に他の仕事に移り、治療に専念できる措置が必要だったのに、伝染病予防法の適用は、その差別・偏見に拍車をかけることになった。感染症予防法案は、さらに感染者の住所・氏名の報告義務まで課そうとしている。

 ■エボラ出血熱の入院患者に入院命令を出して意味があるの?

 近年、エボラ出血熱が小説などでセンセーショナルな話題となっているせいか、感染症予防法案でもエボラ出血熱などを「一類感染症」に分類し、七二時間以内の強制入院など最も厳しい措置を規定している。
 エボラ出血熱は、たしかに致死率の高い疾患である。しかし血液感染しかせず、空気感染のない、比較的感染力の弱い疾患でもある。まず我が国でエボラ出血熱の蔓延が起きることは考えにくい。
 エボラ出血熱発生の報告は、当然のことながら病院からもたらされる。「発症者と思われる患者が入院した」との一報であるはずだ。その対応として考えられるのは、移送が可能ならば治療能力の高い感染症指定医療機関に移送することであり、移送が不能ならば医療チームを派遣することである。それとともに疫学調査チームを派遣し、感染原因の特定を急ぐことが必要である。
 しかしながら、感染症予防法案に規定されているのは、まず七二時間以内の入院勧告である。入院している患者に入院勧告とは滑稽な話だ。さらに感染者の立ち入った建物や場所の封鎖・消毒、死体の移動禁止などが続く。まさに映画『アウトブレイク』を想起させる対策で、伝染病予防法に規定されていたものと同じだ。伝染病予防法の交通遮断や死体の移動禁止は、公衆衛生審議会の報告書で「極めて大規模の感染症の集団発生があった場合を想定した措置で」「現代の公衆衛生水準を考慮すると想定し難く」「社会的に認め難い」として廃止の勧告を受けているものである。
 映画『アウトブレイク』は、地域封鎖の上、住民抹殺によって感染症の拡大を防止するのか? 原因を究明し、感染した住民の治療を行なっていくのか? の対立を描いていた。さすがに感染症予防法案には住民抹殺の規定はないが、前者の対策が中心であることは確かだ。感染症出現の可能性が高いのは、人口が密集し移動の激しい都市部である。もちろん東京が最も確率が高いことになる。はたして東京を封鎖することが可能なのだろうか? 東京を封鎖したとして、感染症の拡大を防止できるのだろうか?

 ■積極的疫学調査は機能するか?

 感染症予防法案では、積極的疫学調査(アクティブ・サーベイランス)を行なうことを掲げている。積極的疫学調査とは、感染症の原因究明と感染拡大状況把握のため、病院等を訪問するなどして情報収集を行なうことである。『エイズに学ぶ』(日本評論社)の中で芦沢正見氏は「WHOあたりではアクティブサーベイランスということばを使い、サーベイランスは、ただ上がってきたものを漫然とながめて、患者数が上昇した、下降したというだけではいけない、対象を絞って行動を起こすのが望ましいといっています」(一三一頁)と紹介している。アクティブ・サーベイランスとは、文字どおり行動をとるための調査なのである。エイズ予防法のように、報告された数字を集計して発表しているだけでは、何の対策(行動)にもつながらないわけだ。
 アクティブ・サーベイランスは感染症対策に欠かせないもので、厚生省が欧米の感染症対策から十数年遅れて取り組む姿勢を見せたことは大いに評価できる。しかしながら感染症予防法案では、患者や関係者への質問や調査に関する行政への権限付与のみをもって積極的疫学調査としている。アクティブ・サーベイランスには、ウイルス同定のための検査体制の整備や、治療対策まで含まれると解される。しかし、感染症予防法案での積極的疫学調査には、そのような視点はない。これでは何のために「積極的に」調査するのか不明ではないのか。
 そもそもアクティブ・サーベイランスで適切な情報を収集するには、感染者や医療者、住民などからの協力が欠かせない。協力が行なわれるには、行政への信頼がなくてはならないはずだ。今の行政は、感染者や住民から積極的に協力が得られるほど信頼されているだろうか。感染者の住所・氏名などの報告も、疫学情報の信頼性を高めるためには必要だと私は考えている。エイズ予防法のように、過度にプライバシーに配慮していては、ダブルカウントや行方不明が続発し、疫学データの信憑性を大いに欠くことになるのだ。しかしながら、感染症予防法案のように、入院命令や就業規制を前面に押し立て、行政への調査権限付与による強制的調査に、誰が積極的に協力しようとするものか。
 アクティブ・サーベイランスにより感染症の原因に肉薄しようとする調査官は、それなりに感染症に罹患する危険性を伴うものである。それが未知の感染症であれば、なおさらである。もし調査官が感染してしまった場合、最高度の医療が提供されるべきだろう。その保障がなければ、専門家であっても、自らの身を危険にさらす人は少ない。感染者の医療を保障しなければならない理由が、ここにもある。入院命令を出して終わりでは、調査チームの士気は高まらないに違いない。
 感染症予防法案の「積極的疫学調査」は、WHOなどか推奨する「アクティブ・サーベイランス」とは似て非なるもの。単なる「『強制的』疫学調査」に過ぎない。これでは感染症対策を行なうための調査ではなく、感染者への脅しのための調査だ。

 ■感染症は人からしか感染しないの?

 感染症は病原体が体内に侵入して起こる疾患であり、その病原体が侵入するルートは様々に考えられる。我が国でエボラ出血熱が発生するとしたら、輸入された猿などに起因してのものだろう。潜伏期間の関係から、感染者が発症する前に入国する事態は考えにくいのである。
 O一五七では給食が原因であったことは確かだ。エイズでは、輸入血液製剤によって多大な感染被害を生じさせた。人からの感染しか想定していないエイズ予防法では、放置された非加熱製剤による感染拡大を防げなかった。MRSAでは院内感染が問題であり、それは抗生物質の使い過ぎや病院の衛生管理の問題であった。近年問題となっている感染症は、感染者が原因となって感染拡大が起こるような感染症ではない。感染者の管理では防げない感染症が問題となっており、それが国際保健規則や伝染病予防法の改正の根拠の一つでもあったのだ。
 ところが感染症予防法案では、相変わらず感染者の管理一本槍である。公衆衛生審議会からは猿を原則輸入禁止にするよう勧告されている。しかし厚生省が出してきた感染症予防法案や検疫法改正案では、猿を検疫対象にし獣医に報告義務を課しただけの対策となっている。食料品や医薬品が原因の感染症対策には触れられてもいない。
 感染症予防法案では未知の感染症出現への対策として「新感染症」を定義し、エボラ出血熱など一類感染症に準じた扱いを規定している。ところが、その新感染症の定義には「人から人に伝染すると認められる疾病であって」との条件がつけられているのである。人から人に伝染すると認められない未知の感染症に対しては、それがどんなに感染力が強くとも、それがどんなに致死率が高くても、この感染症予防法案では対策しないことが明言されていることになる。感染症予防法案が「人から人へ伝染」させる感染者のみを規定する『伝染病』予防法案であることが、ここでも明らかとなっている。
 感染してしまった「人」は管理されてしまうけれど、その原因となった動物や食料品・医薬品などは放置されてしまう。それが感染症予防法案である。

 ■インフルエンザ対策は十分か?

 香港の新型インフルエンザ・ウイルスが話題だが、インフルエンザは毎年日本で数百人もの死者を出す感染症である。都内の特別養護老人ホームでは、一年前のインフルエンザで四二人もの死者を出している。我が国の感染症の中で毎年最も死亡者数が多いのが、このインフルエンザだ。空気(飛沫)感染することからわかるように、感染力も強い。感染症予防法案の感染症分類基準である「感染力、罹患した場合の重篤性等に基づく総合的な観点から」考えれば、インフルエンザこそ「危険性が極めて高い感染症」だと言える。
 ところがインフルエンザは、エイズなどと同じ「四類感染症」に分類されている。つまり、感染者数の報告義務しか課せられていないのである。おそらくインフルエンザ・ウイルスの感染者は(感染力が強いため)あまりに多く、強権的な規制がかけられないとの判断なのだろう。逆に言えば、エボラ出血熱の感染者なんて(感染力が弱いため)出てもわずかでしかない。小人数ならば強権的な規制も可能だという判断だ。
 しかし、これでは明らかな論理矛盾だ。入院命令という名の隔離措置などの規制が必要だとしたら、それは感染力が強く感染拡大が危惧されるからだ。感染力が弱く感染拡大の心配がないときにだけ規制したのでは、全く意味がない。欧米で隔離措置などの規制を「中世の方法」として近現代の感染症対策から却下してきた事情には、そうした理由があるのである。

 ■どうして感染症の分類が必要なの?

 感染症予防法案では、エボラ出血熱などを一類感染症に、コレラなどを二類感染症に、O一五七を三類感染症に、そしてエイズなどを四類感染症に分類し、それぞれの規制措置を定めている。
 そもそも感染症対策の見直しは、百年前に制定された伝染病予防法では、新興感染症や再興感染症に対応できなくなってきていることにある。今後も未知の感染症や、制圧したと思った感染症が再び増えてくる事態は十分予想される。新しい法律は、そうした将来の事態に柔軟に対応できることが望まれているはずだ。感染症名を限定列挙した法律では、伝染病予防法と同様、早晩陳腐化してしまうことは避けられない。
 そのため感染症予防法案では、五年ごとに法の対象とする感染症を見直すことを規定している。しかし、五年ごとに法改正を行なうというのは、いかにも無理がある。感染症予防法案では、政令で指定できる「指定感染症」や「新感染症」も規定して、法律の柔軟さを確保している。それでは、なぜ全ての感染症分類を政令に委ねてしまわないのか?
 それは法律が国民の規制を行なうものだからである。行政の暴走を抑止するため、行政が国民に規制を行なおうとする場合は、事前に法律による厳格な規定が求められるのである。そこが、感染症予防法案が対象とする具体的な疾病名を列挙し分類し規制を定めている理由なのである。にもかかわらず感染症予防法案は、政令によって自由に指定できる余地も残している。実質的には、行政に無制限な権限を付与しているに等しい。公衆衛生審議会の議論や報告には、行政が権限行使に萎縮しないよう法的責任が問われない免責条項を入れようとの文言もあった。
 感染症対策を規制ではなく、内外の協調によって成し遂げようという趣旨ならば、法律に感染症名を限定列挙する必要もなく、個々の感染症に対し、そのときの知見に基づいた適切で柔軟な対応が可能となる。しかしながら、厚生省が感染症対策の見直しについて公衆衛生審議会に諮ったのは、最初から「規制の対象となる疾病の選定にあたって、規制の根拠を何に求めるべきか」「どのような感染症についてどの程度の行政的な防疫対策が必要か」ということであった。感染症対策の中心を『規制』に置くことは、厚生省にとって規定路線だったのだ。それゆえ、公衆衛生審議会が「新しい時代の感染症対策について」と題し、「個々の国民の感染症予防及び良質かつ適切な医療の提供を通じた早期治療の積み重ねによる社会全体の感染症予防の推進」と提言しても無視し、公衆衛生審議会が行なった感染症分類のみを感染症予防法案に盛り込むことになるのである。厚生省が公衆衛生審議会に期待したのは、規制を行なうための対象とする感染症分類だけで、「新しい時代の感染症対策」などを提言してもらうことは望んでいなかったらしい。

 ■なぜ結核が入っていないの?

 感染症対策の見直しの背景の一つは、結核に代表される再興感染症の問題であった。しかし、結核予防法は感染症予防法案に統合されないことになっている。なぜか? それは「結核予防法が、よくできた法律だから」だという。つまり、感染症予防法案が結核予防法より、明らかに見劣りする法律案であることを、厚生省自ら認めているからだろう。
 結核予防法が他の感染症関連法に比べて評価されているのは、一次予防(感染予防)だけでなく二次予防(治療)まで規定した法律だからである。結核予防法は第一条で「この法律は、結核の予防及び結核患者に対する適正な医療の普及を図ることによつて、結核が個人的にも社会的にも害を及ぼすことを防止し、もつて公共の福祉を増進することを目的とする」と明言している。わずかではあるが、患者の治療を受ける権利にも言及されているのである。
 感染症対策において、一次予防(感染予防)だけでは機能せず、感染拡大の防止すら成功させることができないのは予防医学の常識でもある。感染していない人には感染予防を、感染した人には適切な治療を、治療が成功した人には社会復帰を、感染者も含め全ての国民の被害を未然に防ぐのが、本当の意味での「予防」なのである。そして、感染していない人は、感染者の治療や社会復帰を支援し、感染者は感染していない人が感染しないよう努力する。人類の敵は、同じ人間である感染者ではない。感染した人も感染していない人も、協力して感染症に立ち向かうのがあるべき姿なのである。したがって二次予防(医療)、三次予防(社会復帰)といった対策がバランスよく配置されてこそ、感染症の拡大は防止できる。公衆衛生審議会の報告書でも「患者・感染者に対して良質かつ適切な医療を提供し、早期に社会生活に復帰できる仕組みの構築」を提言しているのは、この二次予防・三次予防の重要性を指摘したものである。
 感染症予防法案も、感染症指定医療機関の整備を規定していることは評価できる。しかし、それは適切な医療の提供の場というより、入院勧告による隔離施設としてのニュアンスが強い。最低限、感染者が感染症指定医療機関で適切な医療を受けられることを保障するなど、二次予防・三次予防の観点から感染症指定医療機関を位置付けることが必要だろう。
 現在の結核予防法にしても、大改正され施行されたのは昭和二六年のことだ。もはや現在の知見にあわなくなってきているからこそ、結核が再興感染症として問題となってきているのである。感染症予防法案を結核予防法に見劣りしない二次予防・三次予防の規定の入ったものとし、再興感染症対策をも視野に入れた総合感染症対策法案とすることで、結核予防法を廃止・統合させるのが筋ではないだろうか。


 日本が公衆衛生水準の向上とともに感染症を制圧したかに見えたのは昔の話となってしまった。今や日本人観光客のみがコレラに感染し、世界的にも例を見ないO一五七の大量感染被害を生じさせ、抗生物質の使い過ぎによる薬剤耐性菌では日本が発生源になるとして海外から批判の対象となっている。抗菌グッズが流行する一方で、手洗いやうがいなど本当に感染症から自分の身を守る術は忘れ去られようとしている。風邪をひけば安静より、安易に効くはずもない抗生物質やあるはずもない「風邪薬」などという薬をやたらと飲む。それが日本人の現状である。エイズ予防法制定から十年、いま再び同じように意味のない法律案が登場してきた。
 エイズ予防法がエイズ予防には役立たないことは、法案の段階で多くの厚生官僚が気付いていたことであった。エイズ予防法はただひたすらパニックを防止するために制定されたのだ。感染者が管理されているというイメージが流布されれば、それが感染症拡大防止に何の役に立たなくとも、国民は安心してしまう。何百人、何千人、何万人の国民がエイズで死のうとも「自分さえ死ななければかまわない」…そんな国民感情を見透かしたのがエイズ予防法であった。感染症予防法案も同じである。
 実際、感染症予防法案が成立しても(エイズ予防法がそうであったように)それほど国民生活に影響を与えることはないだろう。入院患者に入院勧告したり、できもしない地域封鎖を規定している法律である。エイズ予防法が廃止されれば、血液製剤による感染者の除外規定もなくなり、都道府県単位の実態が判明して、真に有効な対策がとれるようになるかもしれない。このことは素直に喜びたい。
 しかし、エイズ予防法の存在が治療体制の整備を遅らせたり、効果のない感染予防キャンペーンに膨大な予算が投入されたりしたように、この滑稽な感染症予防法案の存在が感染症対策として意味のない行動へ走らせてしまう余地は多分にある。結果、日本はますます感染症を抑止できなくなり、多くの国民が「感染者が管理されれば、自分は安心」との誤解を植え付けられながら、感染症に苦しんでいくことになる。
 断言しよう、感染症予防法案では感染症は食い止められない。もし、この法案が成立するならば、感染症に苦しむ二一世紀の日本国民に対して責任を負わなければならないのは、私たちであると。

           [草田 央]
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