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エイズ予防法とは

草田央 

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九八七年一月一七日の厚生省エイズサーベイランス委員会は、日本初の女性エイズ患者の発生を発表した。「神戸市内の二九才の無職の独身女性」「七年前に男性同性愛者の疑いのある外国人船員と同棲」「その後に多数の日本人男性を相手に売春」などと、本人を特定しうる情報を開示し、かつセンセーショナルな推測情報(後に誤報と判明)を断定的に伝えたため、神戸エイズパニックが発生した。
 パニックを背景に、厚生省はエイズ予防法案作りに着手した。同年三月一九日における累積エイズ患者は三六人で、うち汚染された血液製剤によって感染させられた血友病患者は二二名と約6割を占めた。また血友病患者の約3割が感染しているとの統計データから一千人の感染者がいるものと推測されていた時期である(現在は、約二千名の感染被害者がいると推測されている)。その後、サーベイランスの対象に感染者が含まれることになり、一九八七年の時点では全体の九八%が血液製剤による感染者であった(その過半数は未成年者)。いきおい、エイズ対策は、これら圧倒的多数を占める血友病患者対策を無視しては行なえない。一月二一日の全国衛生主幹部局長会議の席上、厚生省の仲村英一保険医療局長は、新たな単独立法を作る理由として「日本のエイズ患者・感染者のなかには、血友病患者も多く、この人たちは性病を対象として法律に含めるのは好ましくない」と語った。血友病患者に法の網をかぶせるために、単独立法が必要だったというのだ。
 エイズ予防法案には、ただちに血友病患者団体を始め多方面から反対の声があがった。すると、二月二七日高知県から厚生省衛生局に報告された情報を元に、感染女性が出産間近であることが報じられたのだ。その女性に感染させたのは、元の恋人・血友病患者であるという。高知エイズパニックが始まるとともに、血友病患者への迫害が始まる契機となったのである。しかし、この時、その妊婦も血友病患者も、エイズサーベイランス委員会がエイズ患者と認定していたわけではない、委員会頭越しの情報だ。血友病患者を感染源として位置付け、エイズ予防法による管理の必要性を説く題材として提供された情報と考えられる。エイズ予防法の推進役となった自民党「エイズ問題に関する小委員会」委員長大浜方栄議員も著者の中で「血友病の患者さんはほんとにお気の毒な立場ではあるけれども、かりに血友病の患者さんが麻薬患者で、麻薬を得んがために売春する、ということに対してはどう思われますか。それに対して、普通の血友病の患者さんと同じように、プライバシーを守り、人権を守らなければならないのか、あるいは法的にきちっとした予防対策をとるべきなのか、ということですよね」(サイマル出版会『日本のエイズ』一七六頁)。
 予防法案は、厚生省が原案をまとめ、自民党がそれを後押しする形で、三月三一日に内閣提出法案として提出された。しかし法案反対の多くの声の前に、審議のないま“継続審議”が続いたのである。それも一九八八年一〇月二七日に自民党と民社党による修正案が衆議院社会労働委員会で可決され、一二月二三日「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」は成立した。全会一致で「法施行後、3年を目途に、患者・感染者の発生状況、治療法の研究開発の状況等を勘案し、必要に応じ、法の規定に検討を加え、その結果に基づいて所要の措置を講ずること」との附帯決議が可決されているが、6年を経過した今も検討さえ行なわれている気配はない。

イズ予防法は、第1条の目的において「エイズのまん延の防止」をうたっている。が、そもそもエイズのまん延防止に、法規制が必要だろうか? もう皆さんはエイズが感染症の中でも最も感染しにくい部類に属するものだと理解してくれているだろう。そう、エイズの蔓延防止に法規制など必要ないし、邪魔なだけなのである。
 しかし、エイズ予防法は、前述の大浜議員の著作によるとネズミ算式に増える疫病であり、まだ感染者の少ない日本において感染者を追跡調査・管理することによって二次感染を防止しようとする目的に読める。一人の感染者から地域一体へ広がるという誇大な感染率を想定していることが伺えるし、また発症までの潜伏期間が永いことを無視して感染源の追跡調査が可能だとの夢想にとらわれているように思えるところだ。
 そして、予防法は現に第7条2項において「医師は、その診断に係る感染者にエイズの病原体を感染させたと認められる者が更に多数の者にエイズの病原体を感染させるおそれがあることを知り得たときは」と医師による追跡調査も期待しているし、第8条では医師の氏名・住所の通報によって感染源たる感染者への都道府県知事勧告を定めている。そして、第2項による健康診断受診命令、第9条による伝染防止指示となるわけである。
 予防法の問題点はいくつも指摘されるが、その一つが氏名・住所が通報される要件である第7条の「多数の者にエイズの病原体を感染させるおそれ」という曖昧な表現である。厚生省通達によると「不特定多数とは2人以上のこと」であることを考えると、その危惧はますます大きくなる。実際、通報された事例を見ると、単に外国人であったということ以外の根拠が見当たらないようである。
 エイズの蔓延防止は、感染者のみを管理することでは成功しない。いや、それどころか、非感染者がリスク行為を避ければ、感染者がいかに自暴自棄になろうとも感染は成立しないはずである。そもそも、ほとんどの感染者は自分が感染していることを知らない状況であることを考えれば、たまたま発見された感染者を管理してみても、意味はないことに気付くだろう。売春者や麻薬常習者は、何もエイズ予防法でなくても、それぞれの法律によって規制の対象となっている。エイズ予防法の必要性を訴えるために売春者や麻薬常習者を持ち出すこと自体、おかしな話である。

た、予防法の大きな問題点として、治療の観点を全く欠いていることがあげられよう。性病予防法でさえ、予防とともに治療が大きな柱となっている。しかし、「エイズ=死=治療法はない」との誤った認識から、治療体制はもちろんのこと、患者の治療を受ける権利の規定はない。エイズが特殊な病として位置づけられるとしたら、それは差別・偏見によって患者の権利が侵害されている点以外にはない。エイズに関する立法化が必要だとしたら、まさにその点である。しかし、エイズ予防法には、治療を受ける権利も、就学・就労の権利も、感染者に対する福祉対策も何もない。感染者にあるのは、第6条「感染者は、人にエイズの病原体を感染させるおそれが著しい行為をしてはならない」といった義務のみである。これにも「おそれ」という曖昧な表現が使われており、セイファーセックスや出産はては就業・就学さえ含まれる可能性を指摘する声が法律家から出されている。
 検査を受けて、もし陽性と出たら、第7条の曖昧な表現により都道府県知事に氏名・住所を通報される危険が出て来る。もし通報されれば、一生涯、都道府県知事の指示を受けなければならなくなる。健康診断は受けさせられても、治療を受けられるかどうかはわからない。そもそも、そんな通報をする(権限を与えられている)医師など信頼できない。医師以外に情報が漏れれば、就業・就学・居住にも差し支えが出てくるかもしれない‥‥そう考えて、検査を受けることを避ける人が多いのは、むしろ普通のことだろう。
 法文中にはプライバシー保護の規定もある。が、エイズ予防法のきっかけとなったエイズ・パニックにおいて医療機関および行政機関から情報が漏洩し、なおかつ誰も処罰されていないことを考えれば(医療従事者も公務員も守秘義務があるはず)、それらの規定が機能することは最初から期待できるものではなかった。

イズ予防法を、サーベイランスの法的根拠だと指摘する人もいるかもしれない。サーベイランスとは、2ヶ月に1度、患者・感染者数を記者発表している“アレ”である。
 しかし、エイズ予防法成立以前からサーベイランスは行なわれていたし、エイズ予防法の報告義務により報告数が劇的に増えたという事実もない。他の感染症の例を見ると、法規制による報告より、法規制のない調査の方がうまく機能しているようである。エイズに関するサーベイランスも、予防法によりうまく機能しなくなったとも言えるかもしれない。
 少なくとも、現行の患者・感染者数を記者発表しているだけのサーベイランスに、何の意味も見出せない。サーベイランスによる疫学情報は、エイズ対策(行動)に移してこそ意味がある。感染予防に関して言えば、どのようなグループにどのようなアプローチ(啓発)を行なっていくかのデータにならなければならない。各県の患者数は、各県に必要なベッド数など治療体制を整えるのに必要なデータであるはずだ。しかし、疫学情報を元にグループごとの啓発事業が展開されているとは思えないし、治療体制も整備されていない。どのような日和見感染を発症しているのか? どのような死因で死亡しているのか? という情報も医療体制を考える意味で必要なデータだと思われるが、厚生省では把握していないという。疫学情報を行動に活かしていくことは「アクティブ・サーベイランス」としてWHOから奨励されているが、日本のサーベイランスは、とてもそんなもんじゃない。
 そのサーベイランスも、「血液凝固因子製剤による感染者」は除外されている。特定の感染経路をサーベイランスから除外するなどというのは、世界的にも例がない。そのため、各県に一定数以上の被害者がいるにもかかわらず、「わが県に感染者は、ほとんどいない」となり、医療体制整備の必要性を否定する根拠にもなってしまっているのである。

う、エイズ予防法の医師の報告義務からは、「血液凝固因子製剤による感染者」は除外されている。が、除外されているのは第5条の報告義務のみで、それ以外の条文はすべて「血液凝固因子製剤による感染者」も例外ではない。前述の「多数の者にエイズの病原体を感染させるおそれ」があるとされれば氏名・住所等を通報されるし、血友病患者であっても知事の健康診断命令に違反したり、都道府県の職員の質問に対して虚偽の答弁をすれば、罰せられるのである。もちろん第6条の「感染させるおそれが著しい行為」は禁じられている。
 なぜ「血液凝固因子製剤による感染者」が報告義務から除外されたのかと言えば、既にかなりの感染者が把握され、今後も報告されることが十分期待できたからである。一九八六年に設置された「HIV感染者の発症予防治療に関する研究班」により血友病医のネットワークが完成し、そこに無断検査によるデータが集約されていったのである。しかも、血友病患者は、医療費助成制度により各都道府県が住所・氏名を全て把握している。エイズ予防法によってあらためて報告してもらう必要は、さらさらなかったのである。
 さらに、サーベイランス委員会が発表される数値は常に「凝固因子製剤による感染者を除く」となっていたため、薬害被害を隠蔽することに大いに役立つこととなった。

2条1項において「エイズに関する正しい知識の普及」を掲げているのに反して、国民に「伝染予防法に準じる(第一一条)ほど、感染力の強いもの」との誤解を定着させることになった。そして、独立の法律ということで、エイズをことさら特殊な病気と位置付けさせ、差別や偏見を固定したのである。
 そして、予防のみを規定し、治療の観点を除外したため、以後の日本のエイズ対策は予防キャンペーンにのみ特化していくこととなった。多数の薬害の被害者が、一刻も早い治療体制の確立を願っていた時にもかかわらず。ここに、患者・感染者の見殺しの構図はできあがった。
 さらに、その予防に関しても、薬害の被害者には告知されない方針が取られていた時期である。結果、多くの二次感染被害が生じている。汚染血液製剤は回収されず、エイズ予防法案が出された一九八七年にも感染被害を出している。非血友病患者への凝固因子製剤投与は、最近になってようやく発覚した(最初から予想されていたことである)。他の血液製剤の安全性についても、調査すらされてきていない。これが本当に「エイズの予防に必要な施策を講」じてきた(第2条1項)と言えるのであろうか?

の責任を避け、患者・感染者に義務のみを課し、国民のエイズに対する差別・偏見を固定したエイズ予防法。日本のエイズ対策は、この予防法により1歩も2歩も後退し、スタートラインにすらつけないまま現在に至っている。

[草田央]

●参考文献:
『エイズの文化人類学』別冊宝島67(JICC出版局)
『エイズに学ぶ』山田卓生/大井玄/根岸昌功編(日本評論社)
『エイズと人権』PRC企画委員会/技術と人間編集部編(技術と人間)
『つくられたAIDSパニック』菊池治著(桐書房)


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