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公衆衛生医からのエッセー
サービス利用者の満足は、従事者の満足からはじまる

公衆衛生医師 JINNTA 

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ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト 巷間、保健医療・福祉サービスへの不満がよく語られる。以前より少なくなったように思うが、利用者の満足度を高めると言った観点で日々の仕事を見直していない施設も多く存在することも確かである。保健医療・福祉サービスは、その技術水準を高めることは必要であるが、たとえば、いくら従事者の技術レベルが高くても、にこやかに対処してくれなければあまり満足感は高くならない。  このような、保健医療・福祉サービスへの不満は、現在の保健医療・福祉サービスをとりまく構造的な問題によるところが大きいと思われるが、今回は、少し視点を変えて、従事者の内的な問題に触れてみたい。

 ■従事者の満足度

 これは経営学でよく語られることらしいが、従事者の満足度が高くないと、利用者の満足度は高くならないということである。
 たしかに、医師や看護婦がつかれた顔をして応対してくれたら、治るものも治らないかもしれないし、さらに休みはちゃんと取っているのかな、とか余計な心配までしてしまう。プロなら言わないかもしれないが、愚痴や不満を聞いてあげるのもよいかもしれない。それで従事者の不満が癒されるのなら、そのうち自分に返ってくるはずである(情けは人のためならずとでもいえるか。もっともそういう功利的な話は私は嫌いで、愚痴や不満を聞いてあげるのはお互いによりよいものを作り上げるためだと思いたいが)。
 さて、この説によれば、患者さんの幸せを自分の幸せとして感じることは、大いなる自分の満足である。一方、滅私奉公は、それによって自分の幸せが得られるという宗教的レベルまで高められれば別かもしれないが、普通は決して利用者の満足度を生まない。だから、これだけ自己犠牲をして一生懸命やって「あげて」いるのに、と思っている間はお互いに満足度を高くすることは難しいということになる(これは反論もあろう。今回は「従事者の満足度が高くないと、利用者の満足度は高くならない」が一応「正しい」として論じていることをお断りしておく)。
 もっとも、一生懸命やっても応えてくれない利用者がいることも確かである。これを従事者の責任に帰すのはどうかという気もする。本来保健医療・福祉サービスは利用者と従事者で協働して作り上げるもので、一方的に与え与えられる関係ではないのである。もっとも、医療や民間サービスは、民法上契約関係としてとらえられるから、表には協働作業としては現れてこない。
 なお、この逆は真ならず、従事者の満足度が高くても利用者の満足度は高くなるとは限らない。自己満足に終始している場合も少なくない。

 ■何をもって満足はうまれるか?

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト 従事者の満足度というのは、努力から生まれるのは当たり前である。従って、努力しない従事者は論外、辞めてもらいたいと言うことになるが、努力が報われないと言う環境が存在している場合も少なからずあり、一概に言えない部分がある。ただ、努力しても報われない環境を理由に努力を怠ることはあまり好ましいことではない。適当に憂さを晴らして、憂さを晴らしたあとのむなしさをごまかさずに「味わう」ことが、明日への努力につながるだろう。
 人間の欲望というのは果てしないもので、不満を言ってもしかたがない部分がある。何をもって満足するのかと言うことを述べるのはなかなか難しい。人によっても満足度のしきい値は違ってくるだろう。ただ、以下に述べるようなことがだいたい満足度を高めるための条件となるであろう。

 ・衣食足りて礼節を知る

<JINNTAさんの著書>
生草医者のひとりごと〜おちこぼれ公衆衛生医のエッセー
『生草医者のひとりごと〜おちこぼれ公衆衛生医のエッセー』(保健計画総合研究所刊 税込\1,575)

 待遇面である。給料が低いとか、カットされたなどと言うことは大きく満足度を下げる。さらに、待遇面で気をつけておかなければならないのは、自分より仕事をしない人が自分より待遇がよいということは、大きな不満をもたらすことである。これは年功序列型の組織や、特定の階層が大きな裁量を持っているような組織で見られやすい。
 もっとも、不満を感じている従事者が、なぜあの人の方が待遇がよいのか、と思っても、周りはそれが妥当だと評価していることもしばしばあることである。このような場合は難しい。待遇の差の妥当性を納得した形で見せていないわけで、一般には管理責任に帰される部分がある。

 ・本来の使命を見失うときは満足度が低くなる

 これの一つは慣れである。仕事に慣れてしまうと、しばしば日常的なルーチンワークが無味乾燥なものに移り変わってゆく。
 もう一つ大きなことは、仕事内容を限定、あるいは今までよりも狭小化される場合である。さらに、努力が無駄になる経験をした場合。燃え尽き症候群とでも言えるが、たぶん、時には努力の仕方のどこか間違っているのだろうが、多くは努力というものは報われないものなのである。正直なところ、私見では100のうち3から5ぐらいしか報われないだろうと思う。それでもひたむきに努力を続ける人は尊敬をうけ、いずれ満足を手にすることもできるだろう。一生かけても無理かもしれないが、そういう人に私はなりたい。

 ■自分を見つめ直す余裕をもてるか?

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト 自分を見つめ直すには、いくつかの方法があるだろう。
 何か、自分に欠けているものを見つめ直すのも方法の一つだろう。
 自分の存在意義、自分ができることを確認するなにかの方法を見つけるのも方法の一つだろう。
 心を癒すのもいいかもしれない。
 いずれにしても余裕を持つことが条件である。
 それは実はとても努力を要することかもしれない。
 かくいう私も、明確な答えをもてない。それは、私も自分を見つめ直す余裕を十分にもてないでいるからである。しかし、その気持ちを忘れたとき、自分の満足度がそこねられることは確かであり、他人に迷惑をかけてしまっている。
 そういう意味では、今回の原稿は自分への戒めでもある。

[JINNTA]
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