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公衆衛生医からのエッセー
思いやり教育ということ

FAIDSスタッフ JINNTA 

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 ■エイズ教育の現場で続くとまどいと試行錯誤

 エイズは冬の時代といわれる。日本のエイズ対策はうまく行っていないと、諸外国から批判を浴びることもあるときく。それはエイズ教育も同じである。多くの現場では、とまどい、試行錯誤を続けている。
 そもそも、教育というのは、元来、答えのない世界であって、試行錯誤のくりかえし、そういうものかもしれない。人づくりというのは、なかなか難しいものなのである。

 ■上手に作られた巧みなキャッチフレーズも

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTER 29 さて、エイズ教育の中で、「思いやり教育」という言葉が聞かれることがある。教育業界は、いろいろな造語が作られている領域である。中には訳の分からない造語や、「エイズが『移』る」などという誤解を生んでしまう(著者注:HIVが移ったからと言って、HIVがうつるとは限らない)よろしくない造語もあるが、なかなか言い得て妙の言葉もあって、その巧みさに感心する。
 たとえばエイズ教育はエイズ「脅育」であってはならず、エイズ「共育」でなければならないとか、語呂合わせなのだが何となくイメージはよくわかる。このように上手に作られたキャッチフレーズは、人の心に残り(あるいは侵入)しやすく、広く集団を相手にする「教育」では、効果的だからであろう。
 教育現場には、センスが良くてユーモアのある人が多いような印象がある。おそらく、それがプロというものなのだろう。

 ■「思いやり教育」へのもどかしさ

 歴史がよくわからないので、ひょっとしたら間違っているかもしれないが、エイズ教育で語られる「思いやり教育」は、Living with AIDSを教えようとする過程ででてきた造語であろう。その骨子を単純に要約すれば「PWAの人には、思いやりを持って接しなければならない」と言うことらしい。でも、それは本当に「思いやりのある行動」なのだろうか? 何か違うような気がする、そう思うのは多くの読者も一緒であろう。早くから「思いやり教育」が大切だと説いてきたエイズ教育学者たちも、「違うんだ」と訴えたいもどかしさを持っているのかもしれない。

 ■思いやりは意図的に注入するものではない

<JINNTAさんの著書>
生草医者のひとりごと〜おちこぼれ公衆衛生医のエッセー
『生草医者のひとりごと〜おちこぼれ公衆衛生医のエッセー』(保健計画総合研究所刊 税込\1,575)

 「思いやり」は、誤解を生みやすい言葉である。言葉というのは定義をして使うことが望ましいと思うが、だいたいの言葉はぼやっとした「共通概念」というようなものが存在し、定義することはオトナのすることではない、というような感覚がある。そして多くの言葉は、実際には使う人の裁量にゆだねられている。「思いやり」という言葉が使われるときも、同じである。つまり、言葉が一人歩きするのである。
 世間一般に「思いやり」とは、どのようにとらえられているのであろうか。あまりにきれいにまとまっているこの言葉は、たぶん、使う人によってニュアンスがいろいろ違ってくるだろう。でも、あまりのスマートさに、少なからぬ人に偽善のにおいを漂わせるのではないだろうか。  誤解を承知で言えば、「思いやり」と称せられる「もの」を人に「与える」という「快感」は、その人自身にとっても大きな報酬になるからである。そしてこのことを語ることは大きなタブーでもある。
 おそらく本当の思いやりというのは、身構えて行うようなことではなく、ましてや優越感の裏返しとして行うことではなく、人間同士のおつきあいの中で、その端々に自然発生的ににじみ出すようなものであろう。
 少なくとも、ある特定の対象に、意図的に思いやりを注入するというようなものではないような気がする。

 ■思いやりとは「人と共有すること」

 何かいいことをした、いいことを人に「与える」という「快感」を報酬とすることは、否定されるべきではない。たぶんそれは、人間の自然感情なのだろう。しかしたぶん、「思いやり」というのは、本当は、自分がしてもらうとうれしいことの裏返しなのだろう。それは肯定されなければならない。でもそれは、ギブアンドテイクの駆け引きではない。楽しさも、苦しさも、苦さも、気まずさも、人と共有することが、「思いやり」なのだと思いたい。

 ■標準化され効率のいい「思いやり」とは?

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTER 29 生を慈しみ、人を人としてつきあう。これは言うのは簡単で、行うことは実に難しいことである。日本社会は、高度な経済成長を遂げるために、標準品としての人間を生み出す教育を進めてきたように見える。これは社会の要請であったのかもしれない。
 本当の「思いやり教育」なるものを実践してゆくことは、高度に標準化され、社会を動かす部品となることに慣れさせてしまう教育に対する挑戦かもしれない。高度に標準化された教育で語られる「思いやり」というのは、特定の対象集団に対してステレオタイプに提供されるものだからである。それは、「思いやり」の対象をまず決めることから出発する。それが非常に効率的であるし、標準化するのに適しているからである。
 つまり、「思いやり」と称せられるものの大部分は、実は相手のことを考えなくても提供できる行為なのである。そして、それがどうも本当の「思いやり」ではなく、間違っているのではないかと気づくことができるのは、その人にとっては一つの幸せなのだろう。私見であるが、エイズボランティアは、たぶんそのよい機会になることが多いのだろうと思う。
 もちろん「思いやり」は、強迫観念でも、自己犠牲でもないのである。

 ■快感を感じたときには自己を振り返ること

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTER 29 古い歌の歌詞ではないけれど、人は傷つき、人を傷つけて生きてゆくものかもしれない。気づいたときには、もう遅すぎる。もう詫びることができない。だから気まずさを堆積させてゆく。
 「思いやり」だと信じて行ったことが、実は人を最大限に傷つけてしまうということは、おそらくよくあることなのだ。そして、「いいことをした」という快感が、自己の行動に対する批判を忘れさせる。
 だから、快感を感じたときは、立ち止まって自己を振り返ることが必要である。
 でも、そういう経験を「持てる」ということが、実は「思いやり」のあり方を知る早道なのかもしれない。持てなければ決して「思いやり」ということがわからないのだろうと思うからである。
 かくいう私もそういう経験を積もらせて生きてきたし、これからも失敗を重ねて生きてゆくのであろう。

[JINNTA]
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