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公衆衛生医からのエッセー
「正しい知識」に気をつけよう

FAIDSスタッフ JINNTA 

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 ■感情に訴えることと感情を「操作」すること

 人間は感情の動物といわれるが、私の見聞した範囲内で言えば、実際に何かコトを成そうとするときは、感情に訴えることがもっとも早道である。また、何らかの思いから関心を持ち、学習し、自己を高めてゆくということは効果的な啓発方法である。たとえば多くのエイズイベントは、思いを共有してほしいと言うところから始まることが多いし、そうあるべきである。
 しかしながら、この一方でなにかの意図を持って、感情を「操作」するということが行われる危険がある。実際、理屈でわかっていても、感情を抑えることができない場合がある。たとえば、情報を操作して、都合の良いように人を動かそうとするやり方は実際には良くやられているのである。

 ■「正しい知識」には価値観が紛れ込むことも

 一つの例を挙げる。私たちは「正しい」ということばには十分注意しておかなければならない。たとえば「エイズの正しい知識」という響きには、「正確な」というほかに、価値観が紛れ込まれている可能性がある。そしてそれは理性にではなく、感情に語りかけるのである。
 「正しいエイズの知識と行動を」と訴えている人が、ホモセクシュアルに対して否定的な、ないしは無関心で対岸の火事的な認識があれば、「正しい知識」の中に、「ホモセクシュアル」の行動に対して否定的な見解が盛り込まれる余地がある。「不特定多数とのセックスは不道徳」と強く思っている人はもちろんであるが、「不特定多数とのセックスは自分とは関係ない」と思っている人も、同様に「不特定多数とのセックスを避ける」ということの価値が「正しい」ものとして盛り込まれる余地があるのである。これらは、純科学的にみると、単に、ホモセクシュアルの性行動のうち、HIV感染に対しその可能性を高める要因があるとか(たとえば、コンドームを用いない肛門性交)、「不特定多数」の予防手段をとらないセックスによって感染機会が単に増加することであるが、これらはもとよりsafer sexという対処方法が開発されている。これらが、「ホモセクシュアル」「不特定多数」と言うことばで短絡的に語られるときは、単に科学的な説明以外の、全く質の違う誤解(確信の場合もあるだろう)が紛れ込んでいるのである。そして「正しい」と言われたことと、自分の思っている感情や思考が同一方向を向いている場合、われわれは幸せを感ずるはずであるし、逆の方向を向いている場合は違和感を感ずることとなる。

 ■「正しい」かどうかで人を裁くことができる

 一般に「正しい」といわれるものは、そこに何らかの保証があると解することもできる。つまり、「この印籠が目に入らぬか」の世界であり、「寄らば大樹」という感覚にもかなり沿うことができる。もう一つの隠れたポイントは、「正しい」といわれることがらをよりどころにして、人が人を裁くことができる点である。たとえばエイズ医療現場でかつてみられた「自業自得論」とは、患者が「正しい」「正しくない」という価値判断を医療者が行い、患者を「裁く」ことによって起こったのではなかったか。これは、裁いている側には悪意はないことが多い。「正しい」とされていることは、教育の結果、当然支持者が多いことがらとなるから、他人とその「正しさ」を確認することによって連帯感を感じたり、「正しくない」と人を判断することで自分が快感を感ずることもあるだろう。このような感情は、生育歴の中に知らず知らずの間に刷り込まれているものなのか、もともと人間はそのような動物なのか。かくいう私も「勧善懲悪」もののドラマは嫌いではない。水戸黄門も三国志演義も大好きである。

 ■正確な知識によって判断することの大変さ

 「正しい」知識なんていらない、そのかわり「正確な」知識を入手して、個人で判断をすればよいという言い方もできる。たとえば、単に「ホモセクシュアル」であるとか、「不特定多数の人とセックスする」ことが「正しくない」ことだとラベルを貼り、「君子危うきに近寄らず」的に予防線を張るということは、科学の敗北であるし、科学の成果という利益の享受を放棄させることでもある。実際、適切な予防手段をとれば、「ホモセクシュアル」の人たちの方がそうでない人よりもHIVに感染する可能性が低い場合もあるし、「ステディセックス」の方が「不特定多数のセックス」よりHIVに感染する可能性が高い場合もあることは、本誌の読者はよくご存じのことであろう。しかし、「正確」な知識によって「判断」すると言うことは実際にはとても大変で、しかも厳しいことだというのが現実である。

 ■「正確な情報」は単に情報でしかない

<JINNTAさんの著書>
生草医者のひとりごと〜おちこぼれ公衆衛生医のエッセー
『生草医者のひとりごと〜おちこぼれ公衆衛生医のエッセー』(保健計画総合研究所刊 税込\1,575)

 別の例を挙げよう。HIVに感染しているカップルの挙児希望の問題を論ずるとき、たとえば夫がPWAであり、妻がPWAではない場合、私たちは夫から妻へHIVが感染する確率と、母児感染する確率を知っている。また、適切な予防手段を併用すれば、産まれた子どもがPWAである確率は、そんなに高いわけではないことも知っている。これをもってなにを「正しい」というのか、その判断は最終的に価値判断に求められることとなる。価値判断の真の厳しさは、おそらく科学的な正確さによれば確率の問題であっても、当事者にとってはそれは単に情報であるにすぎず、目の前の事象はall-or-nothingの問題であるところにある。つまり、「正しい」事象は何らかの「保証」が施された価値判断込みで入ってくる性質を持つが、「正確」な情報は単に情報でしかないと言うことである。

 ■人によって、時代によって異なる価値判断

 価値判断というものは、ある人には「正しく」、そして別の人には「誤った」ものであるかもしれない。これらが社会において語られる場合は、「社会通念」だとか「常識」といった範疇で処理される場合が多い。この「社会通念」や「常識」は不変なものではなく、時代とともにうつりかわるものであり、その大きな要素は「教育」と「環境」であると思われる。挙児希望の話に戻ると、子どもを産むべきか産まざるべきかと言う問題は、はなはだ個人的な問題であるが、それが社会の問題として擬せられて語られようとする場合は多くは科学以外のニュアンスを含むことになる。

 ■科学が果たしうる役割とその限界

 現実には、PWAの挙児希望のカップルが自らの態度を決定するに関与する因子として、周囲の受容、医療体制、経済、福祉、これらの環境要因が影響するところも大きい。たとえば、周囲の受容という点では、単なるカップル間の問題でとどめられる場合は少なく、支えてくれる人たちがいるのか、拒否的な人たちがいるのかということが大きな要素になる。また、医療者が忌避的であれば産むという選択はしにくいであろう。加えて、産まれた子どもをいかに養育するかという問題(周りの受容に加え、経済や福祉)も大きく左右する。また、PWAである夫が、確率は高くないにしても、妻や産まれてくる子に病気をうつすかもしれないということをどう思い、考えるかというパーソナルな部分にかなりを依存するように思われる。この部分は、科学によって論ずるのは限界があり、最終的には価値観の問題となるであろう。
 感染の可能性を最小限に抑え、周囲の受容、医療体制、経済、福祉、これらの環境要因を整えることには、現状に対する要因究明や、対策実施効果の予測にあたって、科学が果たしうる役割が大きい。しかし、これらを実際にどう推進してゆくのかと言うことになると、最終的には政治的問題となる。政治的問題が難しいのは、政治は「意思表示」とその「実現への努力」そのものであり、当然、感情で動かされる部分が大きいからである。

 ■科学と価値観・感情を明瞭に峻別する態度

 科学研究者は、正確な事実を伝える存在として自己を確立しなければならない。しかし、科学研究者にも感情はあるし、価値観はある。それは科学によって醸成されたものが大きいかもしれない。しかし、少なくとも、科学を語る部分と、それ以外の価値観なり感情なり(あるいは信念)を語る部分とを、明瞭に峻別した態度をとり続けることが、科学研究者には求められる態度であろう。ちなみに私の好きなことばは「夢」と「信念」である。

[JINNTA]


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