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自分の頭で考えるということ

草田央 

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のニュースレターでの連載を読んでいただいてもわかるように、私のスタンスは世間の常識への、いわばアンチ・テーゼだ。それゆえ「どうしたら、そういったウラを読み取ることができるようになるのでしょうか?」という質問をよく受ける。
 まぁ、私の“あまのじゃく”という性格に起因していることは間違いないだろう(苦笑)。ただ、それだけだと単なる疑心暗鬼と同じで、たとえ真実に対しても懐疑的になってしまい、失敗をやらかしてしまうことになる。実際、私はそういうこともやらかしてきていて、注意が必要なのは言うまでもない。事実の裏付けが必要だ。
 私は出不精なので、取材して歩くというのは苦手だ。でも、“データベースおたく”という側面があって、新聞や雑誌の記事をどんどん入力していった時期もあった(最近は、既存のデータベースが利用できるので、自分で入力するのは怠りがち)。事実関係を整理するために、時系列でまとめた年表のようなものは、今でもよく作る。
 二月九日の菅厚相の記者会見で「一月二六日に資料が発見された」と言われる。
 「じゃあ一月二六日前後、厚生省はどういう発言をしていたのかな?」と思って見てみると、資料発見の前日は原告側から厚生省内部資料が地検に提出された“郡司告発”の日だ。
 「こりゃ三日前に調査プロジェクトチームが作られたからという理由だけじゃないぞ」というのが見えてくる。

論好きだから、自分と異なる意見であればあるほど、近づいていって聞きたくなる。
 議論の前提は、相手の立場や論理を理解することから始まる。いろいろな意見を聞くことによって、ものの見方が多面的になる。一方からの見方では真実ではない。多方面から見てこそ真実が見えてくる(これが難しいのだが…)。
 聞く耳を持ってさえいれば、いろいろな意見が自然と聞こえてくる。実際、私のところには、様々な人からの“愚痴”が持ち込まれる。愚痴だから情報としては割り引いて聞かなければならないかもしれないけれど、「あぁ、そういえばアノ人も同じようなことを言っていたなぁ」とか「このことの説明として“有り得る”話だ」といった符合が得られることも多い。
 ともかく、特定の思想信条に凝り固まっていたり、誰かのコントロール下にあると目されていると、自然に情報も集まってこなくなってしまう気がする。
 がむしゃらに突き進んでいる人よりも、門外漢として眺めている市井の民の方が真実が見えていることも多いのだ。

去の歴史から学ぶべき点も多い。HIVという感染力の弱い疾病に、伝染病予防法に準じたエイズ予防法の網をかぶせる問題点を学んでいれば、経口感染しかなく二次感染の可能性なんてほとんどないO157に伝染病予防法を適用することの欺瞞は、即座に感じ取ることができる。
 過去の公害や薬害の歴史を学んでいれば、運動をやることのみ・批判することのみを目的とする勢力に利用され、何ら実効性をあげることなく被害者が取り残されるという敗北が見えてくる(らしい)。
 論理性も欠かすことができない。「蚊では感染しない」「つり革も大丈夫」といった丸暗記は自分の頭で考えることではない。記憶に該当しない応用問題になると、とたんに破綻してしまう。誰かに言われた文言を、背景にある科学性(論理性)を理解することなく唱えるのでは、それはもはや洗脳といっても過言ではないだろう。
 HIVで言えば、感染者の血液・精液・膣分泌液が感染媒体であり、それと粘膜との接触で感染が成り立つ。その論理が理解できれば、ディープキスで感染しないことも、どういう種類のオーラルセックスで感染が成り立つかなど、あらゆる応用問題を自分で解くことが可能になる。
 こうした論理性と相反するのが、権威主義である。医師・官僚・弁護士といった専門家へ依存し、判断(自分の頭で考えること)を委ねてしまうのだ。専門家が論理性に裏付けられた判断をしてくれるかというと、必ずしもそうではない。
 専門家という職能集団は、専門家という立場ゆえに保身的であり、権威主義であり、何らかの目的を持っている集団である。それゆえ論理性(科学性)とは異なる主張をすることが多々ある。
 専門家を信用するなとは言わないが、ある程度の緊張関係を持って論理的に検証を求めていく姿勢は必要だと思う。
 でないと、彼らはプロであるから、我々は容易に騙され利用されてしまう危険にさらされていることに気付かなくてはならない。

たちは、あまりにもキャッチフレーズに躍らされ過ぎているのではないだろうか。「恒久対策の確立」「真相究明」「薬害根絶」などという耳当りのよいフレーズが叫ばれているが、それを叫んでいる人ほど、その具体的内容について何も考えていないように思うのだ(もちろん原告団は、真面目に考えているのだろうが)。
 もし本当にそれらの実現を願うならば、キャッチフレーズだけで満足するハズがない。医療体制ならば、現在の医療の何がネックで、何を解決するべきなのかを探求しなければならない。真相究明も、何のための真相究明なのかを見極めた上で、自ら真相について考えることが必要なはずで、叫ぶだけの他力本願は真相究明の姿勢とは到底思われない。薬害根絶も同様で、薬害の本質を見極め、自らの医療や薬への過度の依存(期待)を改めなければならないはずだ。そうした問題解決(実効性)への努力を何もすることなく、キャッチフレーズのみを叫ぶというのは「批判のための批判」か「何でもいいからやるだけ」というものでしかない。原告団なり弁護団の要求に便乗し、それを利用して自らの自己実現(満足感)を得るだけのものでしかない。
 自らの頭で考えることなく、他者の掲げたキャッチフレーズを叫び、自己実現をはかろうとする集団の主張が、力(実効性)を持つはずがない。しかし、もともと実現性は目的ではなく、やることだけが目的なのだから、彼らはそれなりの満足感を得て、他のテーマ(キャッチフレーズ)を求めて去っていくだろう。何の具体的成果もなく、後には逃げることのできない被害者のみが残っていく…。
 真に「恒久対策の確立」「真相究明」「薬害根絶」を求めるならば、それは必ずしも原告団・弁護団の要求と一致するとは限らない。そこには、何らかの議論が生じるはずであり、様々な模索が行なわれるはずだ。
 そして、その必要性を(キャッチフレーズではなく)丁寧に解説し訴えていくという手法が用いられるはずだ。それなしに安易に「感染者を支える」とか「原告を支える」と主張するのは、「自分たちには関係ない他人事」であり「可哀想な人を助けてあげるんだ」といった傲慢さが見え隠れしているようでならない。

 薬害エイズの問題に限らず性行為感染等々も含め、今一度「自分の頭で考えるということ」を意識してみる必要がある。でなければ、騙され扇動されてきたエイズの歴史をずっと繰り返すだけになってしまうのではないか。

[草田央]


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