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エイズホスピス構想

草田央 

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 九四年四月三日の時事通信ニュース速報によると、「厚生省は三日までに、末期のエイズ患者の治療や看護を行うホスピス(緩和ケア病棟)を東京都清瀬市の国立療養所東京病院内に設置する方針を決めた。近く施設整備に着手し、今秋以降にエイズなどの重い感染症の患者の受け入れを始める計画」とある。
 かねてから計画されていた『エイズ・ホスピス構想』が、いよいよ実現に向けて踏み出したと思われた。『ホスピス構想』に反対し続けている石田吉明氏は、国際エイズ会議においてあらためて危惧を表明した。
 九四年十一月十四日に厚生省に問い合わせたところ、計画が遅れていて九五年の夏ごろ完成予定とのことであった。しかしながら、治療方針や患者の意思の確認方法など、ソフト面について質問すると「HIV緩和ケア病棟検討委員会で検討中である」として、詳細は明らかにされなかった。「ホスピスに入りたいとの要望が存在するのか?」との質問には、「計画中のものなので希望者を募っていない」とし、希望者があっての計画でないことを認めたのだった。
 エイズ・ホスピス構想は一九九二年に厚生省によって提唱され、九三年度から予算化されてきたものである。が、厚生省の提唱であることを考えると、一九八七年エイズ予防法の国会論議で「治療の方法がないんだから収容するだけ」「積極的な安楽死を求めるような状況下にある患者さんたち、あるいは感染者がみずから隔離を希望したとき」といった主張の延長線上にあることを疑わざるを得ない。


 エイズ・ホスピスそのものは、海外にも例があり、その意義は少なからぬものがある。けれども、厚生省の『ホスピス構想』は、多くの疑問点を抱えている。
 その一つは、いまだにエイズ診療体制がほとんど整っていないなかでの『ホスピス構想』であるという点だ。患者にとって、いくつかある選択肢の一つとしてホスピスがあるのなら理解できよう。しかし、診療や入院させてくれる病院が存在しない状況でホスピスが設置されたとしたら、それは患者にとって選択肢の一つではなく、選択せざるを得ないものとなるのではないか。選択できなければ、いくら本人の意思による入院であっても、退院規定を設けていたとしても、それは実質的な『隔離』と同じになってしまうのである。
 現実的に住む場所を追われ、診療してくれる病院もなければ、たとえ「ホスピス」であったとしても、ないよりはマシ…という意見もある。すでに日本にも存在する末期のガン患者等を対象にしたホスピスが、エイズ患者も入院させてくれるというのならば歓迎すべきかもしれない。また、すでに積極的にHIV診療に取り組んでいる病院がホスピス『病棟』を設置するという話ならば大賛成である。が、話は、厚生省が新たにエイズホスピスをつくるという話なのである。厚生省管轄の国立病院のほとんどが診療拒否をしている状況で、ホスピスをつくるというのである。
 医療体制が整備され、「じゃあ、次はホスピスだ!」というのならわかる。
しかし、拠点病院構想は各都道府県への通達のみ。「基本的には各都道府県の問題ですから」(厚生省談)。手術拒否をした国立国際医療センターの問題には「手術拒否ではなく手術の適用になかったんだ」(厚生省談)という後ろ向きの姿勢。それに比べて、厚生省みずからが音頭をとって病院の改装まで行なっているホスピス設置の意欲は、何なんだろうか?


 エイズ治療体制については、薬害エイズの被害が明らかになった一九八五年から、被害者たちが厚生省に要望してきたものである。が、「あれは薬害だから、薬務局へ行け」「これは薬害ではないから、医療局へ行け」とたらい回しにされ、今まで放置されてきたのが現実なのである。その結果、昨年度の「Natural History 委員会報告」によると、被害者の二〇%のみしかAZT(もしくはddI)の継続投与を受けていない。AZT(もしくはddI)を投与すべきとされるCD4が五〇〇以下になった被害者の、十四%がその投与を受けられていないという状況がある。五日に一人が満足な治療を受けられずに亡くなっているとの話もある。
 エイズ予防法の論議で出てきた「治療の方法がない」との主張は、事実無根である。AZTを始めとする抗HIV治療薬は存在するし、様々な日和見感染をコントロールすることが可能である。たしかに、根治療法は未だ存在しない。しかし、治療方法が存在しないわけではないのである。風邪だって水虫だって根治療法はない。だけど、だからといって「治療の方法がない」わけでないのは、皆さんご存じのところだろう。
 この「エイズには治療方法がない」との『デマ』が、蔓延している。治療方法がないから医療体制を整える必要がない。治療方法がないから、感染予防のみが重要だ。治療方法がないから、感染者に『死に場所』を与えてやらなければならない…といった主張がまかり通っている。これらの主張は、「治療の方法がない」という誤った前提に基づくものでしかない。
 感染予防にしても、カウンセリングにしても、緩和ケアにしても、それぞれ重要なことに異論はない。が、いずれも医療体制が整っているという前提があってはじめて機能するものである。検査体制は整って、それで陽性者が見つかっても受けられる医療がない。まともな医療体制がないのに、カウンセリング体制の整備ばかりが強調される。ホスピス(緩和ケア)も同様だ。感染者の福祉については、視点からまったく欠落している。これでは感染者は、『黙って死ぬ』ことだけ望まれているといっても過言ではないだろう。

 保阪正康著『安楽死と尊厳死』(講談社現代新書)の冒頭には、次のように書かれている(十三頁)。
《社会的に不安定な時期や戦争、飢餓といった時代には、「いかに安らかな死を迎えるか」とか「尊厳の伴った死を……」という主張自体、危険性が伴う。政治的に利用されるのが明白だからだ。安楽死や尊厳死を公然と語る状況は、物質的にも社会的にも恵まれた時代に生きているという証である。》
《自己充足に満ちた論理だけを振り回したり、自らの尊厳を重視するのに終始して人類全体の尊厳に思いをもたないエゴイズムは、安楽死や尊厳死の意味を歪曲してしまうことになりかねない。安楽死や尊厳死がひとたび政治権力の手に握られれば、弱者切り捨て、民族抹殺に利用される恐れがある。すでにそういう歴史的な誤りは起こっている。ナチス刑法(安楽往生法)では民族の純潔を守るためと称して精神病者が抹殺されているし、ユダヤ人の生命が政治権力によって次々と死に追いやられもした。日本を例にとっても、太平洋戦争下で日本軍兵士は玉砕や自決を強要された。部隊が戦場を離脱したり、玉砕作戦を行なうときは、傷ついて歩けない兵士に青酸カリが与えられたり、銃殺されてしまった。アメリカ軍の捕虜にならないためにと、安楽死に類する行為が日常的に行なわれたのである。》
 欧米のホスピスは、民間の、しかも宗教団体の運営によるものが一般的だろう。しかし、日本のホスピス構想は、厚生省の発案によって、密室の中で論議されているのである。  日本のHIV感染者を取り巻く状況が、安楽死や尊厳死(緩和ケア)を論議できるほど恵まれているとは到底思えない。危険な血液製剤を放置し「何人かは感染するものと思っていた」とする厚生省が、「血液凝固因子製剤は、一般の国民に供せられるものではないから」として安全確保を行なわなかった厚生省が、昨年十二月一日の薬害エイズ訴訟の原告の要請に廊下で対応し、だんまりを続けた後「仕事がありますから」と打ち切ろうとした厚生省が、安楽死や尊厳死を口にする恐さを感ぜずにはいられない。
 ある担当の厚生官僚は「被害者の苦情の応対に忙しく代わってもらえるなら代わってもらいたい。あと半年もすれば私も部署が変わり左ウチワ」と言い、責任ある対応ができない言い訳を盛んにしていた。つまり、じっと嵐が過ぎ去るのを待っているというのだ。そのことは、薬害エイズの被害者が死滅するのを待っていることに通じないだろうか。このような厚生省のホスピス構想が、HIV感染者という『弱者切り捨て』である可能性は非常に高いと言わざるを得ない。


 また、厚生省がホスピスを設置する国立療養所が、現在HIV診療を行なっているわけではないことにも注意しなければならない。
 厚生省は、国立がんセンターにガン患者のホスピス病棟を設置した実績を主張する。だが、国立がんセンターはガン診療を行なっていて『さらに』ホスピス病棟を設置したのではないだろうか? エイズの診療経験のない国立療養所が、エイズの『緩和ケア』をし得るのか?にも疑問を感ずるところである。
 エイズの緩和ケアは、ガンの緩和ケアよりも、さらに多くの困難さを持っているようだ。アメリカでエイズ・ホスピスを推進したE・キューブラー・ロスは、自著『エイズ死ぬ瞬間』(読売新聞社)の中で次のように述べている(二三七頁)。
《ガン患者なら、死期を予想するのも難しいことではない。しかし、エイズ患者の臨床像は全く違う。彼らの場合、危篤状態にまで悪化して死の淵に立たされた人でも、二、三週間のうちに回復して帰宅するということがある。エイズ患者たちは、死と隣り合わせの状態と日常生活に支障ない状態の間を行ったり来たりしており、病気の進行を予想することは困難である。》
《急性の感染症や肺炎に対する集中治療によって非常に重い症状から回復し、再び元気を取り戻す若いエイズ患者は珍しくないのだから、彼らに対してこうした治療を差し控えるのは犯罪的な怠慢であり、患者の益にはならない。》
 このように考えると、エイズ・ホスピスに求められる能力には、積極的な最善の医療が行なえる体制も備えていなければならないと思われる。患者の生活の質(QOL)を確保をするため最善の治療を行ない、QOLが回復できない時点を見極め、緩和ケアに切り替える能力が求められるのではないか。でなければ、みすみす助かる命を見捨てることにもなりかねない。診療経験もない国立療養所に、それが可能なのだろうか? 他の病院(医師)の応援を期待しようにも、エイズ医療のネットワークは存在しない。ホスピスの患者も医師も孤立した中で、患者が見殺しにされていかない保障がどこにあるのだろうか?


 物事には自ずと順序があると思うのだ。個々の論理(主張)が正しくても、前提条件(社会状況)を欠いていたら、それは機能しないか、もしくは歪んだ結果しかもたらさない。厚生省が薬害エイズを引き起こしながら「責任は全くない」「解決済み」としていることも、エイズ対策の前提条件を欠いていると言える。自らの加害責任を回避した中で、後ろ向きの対策しか取れないでいるのだ。医療機関や行政が感染者のプライバシーを漏洩した過去を持ちながら、その責任を負っていないのも、エイズ対策の前提条件である『信頼関係』が破綻したままであることを意味する。
 その一方であるのは、感染者の義務のみ規定し生存権を保障していない、管理のみを目的としたエイズ予防法であり、排除のためだけのHIV抗体検査体制である。日本のエイズ対策は、スタートラインどころか一歩も二歩も後退したところにいるのである。

[草田央]


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