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公衆衛生医からのエッセー
とりとめのない話〜1.わかりあう〜

公衆衛生医師 JINNTA 

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 今回のテーマは、私などよりもっとすぐれた書き手がたくさんいらっしゃると思う。内容も整理されていない。だから、ただの書き散らし文と思って読んでいただきたい。いつの日か、もう少し整理して、ここにエッセーとして書ければと思っている。
 また、どうしてもすっきり書くことができないため、言葉足らずで誤解を与える表現があるかもしれない。あらかじめ謝しておきます。

 ■大きいか小さいかは主観的な問題

 さて、普通は、どのような人(家)にも何らかのトラブルや抱えている問題がある。そして通常はトラブルを克服する努力をするか、トラブルを受け入れる努力をする。失業、借金、家庭内の不和、子どもの成績が悪い、嫁姑の確執、近所とのトラブル、病気などいろいろなことがある。それを克服、努力できないとき、人や家は崩壊にむかって進んでゆく。それが大きいものなのか小さいものなのかは主観的な問題であって、どうやっても客観的に評価することができない。どうしても人間は主観で生きるものなのだと思う。だから、「些細なことで」というのは人が言うことであり、当事者にとっては本当に地獄なのだろう。ましてや、よく見られる「人間ができていなかったのだな」などというジャッジメントは本当に余計なことだろう。崩壊してしまった時に、「こんな些細なことで・・・・」と周りが泣き、悔しがるのはまた別だけど。

 ■しょうがい関係の活動で目にした「現実」

 たいしたことはしていないけれど、私はエイズ関係やしょうがい関係の活動に携わってきた。一昨年環境ががらりと変わって、忙しい中、活動は停止状態で、なかなかものごとをゆっくり考える余裕が持てない今日この頃である。さて、このような活動にかかわってきた中、いろいろな現実を目にしてきた。今回は主にしょうがい関係の活動をベースに知ったことを述べてみたいと思う。

 ■エイズの活動と共通する部分

 私はいつもエイズの活動としょうがいの活動がともに共通する部分があると認識している。エイズの活動は必ずしも盛り上がっているとは言えないし、地方への拡散も進んでいるとは言えないが、着実に活動は進んでいると思う。一方で、しょうがいに関する活動は、しょうがいを持つ人やその家族の数が多いこともあるのか、かなり多くのものが行われている。そのうち私は主としては知的しょうがい児の親の活動に関係してきた。私自身は現在のところ当事者ではないため、少し距離を置いて見てきている(なお、この場合の当事者とは、本人と家族などしょうがい側の人間をさし、利害関係や交渉の相手側を意味しない。通常、しょうがいの領域で当事者と言った場合はしょうがい側の人間のみをさして言う)。

 ■社会環境のハードルが著しく高い

 知的しょうがい児の親の活動は、その名の通り親の活動である。従ってそこには親の教育観や人生観が入ってくる。子育てによって親は成長すると言われるが、それはしょうがい児の子育てでも同じである。しょうがい児の親は、しょうがいを持たない子どもの親に比べると社会環境のハードルが著しく高いため、いわゆる普通の人生では経験しないことがらを多く経験しなければならない。そしてその社会環境を克服する努力が大きく人生に被さってきて、これは客観的に見れば「余計な部分」である。だから、親の会の活動をしている親の中には、本当に人間的に「できた人」が多いし、いろいろな考えを理解する柔軟さを持っている人も多いと思う。

 ■現実の対応への足かせにもなる主義主張

 当事者の方を見ると、まず、みんな自分のことで一生懸命だと言うことを感じる。だから、そこからパワーアップするのは大変なことで、親の会の運営といったことは本当に頭が下がる。ところで、親の会のような団体には、往々にして主義主張が入り込むことがある。主義主張は必要であり、みんなを束ねたり、長期的な視野に立った活動を行うには欠けてはならないものである。しかし、往々にして現実の対応への足かせになるということは否めない。また、主義主張は構成員のごく一部の人や、周りの人が作り上げて、一人歩きしてしまう場合もある。周りの人は、当事者とともに生きている人もいるが、主義主張を満たすために当事者とつきあっている人、あるいは最初は当事者とともに生きていたが、年月がたつにつれてはからずもそのように変化してしまった人がいるのも否めない現実である。しょうがい問題に限らず、このようなことはたくさん転がっている。そして多くは現実の問題解決の足かせになっている。主義主張と現実とのあり方はどうがいいのか、悩みはつきないものである。主義主張は相反しても、現実は一つである。

 ■「大変ですね」と言われて傷つく場合もある

 しょうがいをもつお子さんの子育ては、客観的に見ると大変である。だからつい親に「大変ですね」「よくやっていますね」「偉いですね」と言ってしまうことがある。これは相対的な比較から出る感情であり、たいていの人は、本当に感心しているのである。だから、素直な感情の吐露としてつい言ってしまうことであって、「自分はそうではなかったからよかった」と思ってはいない。それはあとから気づくことである。しかし、大変ですねとか偉いですねと言われた方は、そうはとれない場合がある。傷つく場合もある。決して周りからほめられること、「できた人」と評価されることを求めてはいないからだろう。また、他人ごと意識、差別された意識を感じることもあるのである。
 「大変ですね」「偉いですね」と評価してほしいとは思っていないことは、指摘されなければわからない。多くの人にすんなりと知ってもらいたければ、何もわからないで言ってしまう人に対して、大きく傷つかないように、自分で「言ってほしくないことを言っているんだよ」ということを発見してもらうため、上手な指摘というスタンスをとることが重要なのだろう。多くの人間は、自分でわかれば一つ成長するけれど、責められれば逃げ、傷つけば忌み嫌うようになるからである。しかし、このようなことは、当事者が「やめてほしい」といわなければ前に進まないのも現実である。また、自分のことをわかってもらうのに、そこまで他人に気を遣うこともないだろう。ただ、どんな人(家)でも、多かれ少なかれ何かトラブルを抱えていて、ある意味ではお互い様かもしれないということを知ることも大事かもしれない。これはお互いに、遠慮しないで吐露しあうのが一番早いかもしれない。程度の差は大きく違っていたとしても、お互い、何かわかりあえる部分があるだろう。
 注意点として、このようなことは、何らかの主義主張と結びついた時点で、人間対人間のつきあいの範囲を超えて別のものとなる。主義主張となれば、やはり議論の対象になってゆくだろう。

 ■理屈を教える教育、「わかりあう」と言う教育

 しょうがい関係のことで書いてきたのだが、読者の方はすぐエイズの活動と結びつけることができたであろう。たぶん、わかりあうと言うことは、発見しあうという、そういうものなのだ。エイズ教育も、たとえば「このようなことでは感染しません」とか、「感染者とともに共生する社会をつくりましょう」というのは理屈を教えている。でも、理屈はあとからついてくるものなのだろう。「わかりあう」と言う教育をするにはどうしたらよいのだろう。

 ■理屈と感情を包含して考えるための「統合」

 理屈と感情はやはり別物である。理屈と感情を包含して一つのものを考えるには、「統合」が必要なのだろう。そして、自然科学というのは「分化」には強いが「統合」には弱い。今、私にとっては、哲学や宗教を勉強しなければならないときが来ているのかもしれない。

[JINNTA/公衆衛生医師]
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