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プライバシー権の概念とその限界

草田央 

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 エイズと対になる言葉の一つに「差別・偏見」がある。そして、その差別・偏見と対になる法律概念の一つに「プライバシー権」があるように思う。
 実際、エイズをめぐる裁判では、必ずといってよいほどプライバシー権の主張がある。感染者やエイズ関連NGO等は、声高にプライバシー権を叫んでいるわけだ(その割に噂話が好きで、他人のプライバシーに無頓着だけど)。一方、新しい感染症予防法は、プライバシーに配慮しすぎたため、疫学的信頼性も低く機能していないとの批判もある。せっかく獲得した障害者認定も、プライバシーの漏洩を“おそれ”、十分活用できていないケースも多いと聞く。プライバシー権の概念が明確に把握できていないため、混乱が生じているのではないかと思ったのだ。
 けれども我が国では、今のところプライバシー権を明確に定義した法律は存在しない。その概念も、時代とともに変化していくものに過ぎない。さらに、個人情報保護基本法案が検討されており(これを皆さんが読まれているころには成立しているかもしれない)、議論百出の状況だ。とてもじゃないが、今までのように断言調で文章を書く自信がない。まぁ、参考程度に読んでもらえればと思う。

 ■十九世紀末から発展してきたプライバシー権

 プライバシーの権利は、一九世紀末のアメリカで不法行為上の観念として登場してきた。
 古典的には「ひとりで放っておいてもらう権利」(the right to be let alone)とか「個人の私生活がみだりに公開されない権利」と定義される。自分の領域に対する干渉を排除し、公開を拒絶できる権利である。たとえば無断検査などは、身体領域に対する不当な介入として、「ひとりで放っておいてもらう権利」の侵害ととらえることができよう。
 ところが、情報化社会の到来である。医療情報に関して言えば、医師の守秘義務はヒポクラテスの誓いにも明記されているところだった。医師と患者の一対一の関係性だけで医療が成り立っていた時代は、それでも良かったが、近代化にともなって、そうもいかなくなってきた。たとえば健康保険など、医療情報の開示なくしては成立しないのだ。検査も同意した。健康保険を使うことによって、自分の医療情報が伝達されることも理解している。つまり、自分の領域に対する不当な干渉は存在しない。伝統的な意味でのプライバシー権の放棄は、合理化や利便性・経済性などの代償として避けられないところなのだ。と同時に、昔ならプライバシーが公開されたところで、せいぜい近所のうわさになる程度だったかもしれない。それが、今やインターネット等を通じて、世界中に流れてしまう危険性すら生じる事態になったのだ。
 そこで、プライバシー権の概念が発展し「自己に関する情報をコントロールする権利」とする学説が主流となってきた(必ずしも判例上確立しているわけではないように思う)。たとえ自分の領域外にある情報であっても、それが自分に関する情報ならば、それを監視し監督し管理する権限を有しているという考え方である。自分の医療情報の目的外使用を制限したり、誤りを訂正させたりすることができるという考え方である。
 さらに発展させ、「自己の私生活上の事柄について、自分で決定することができる権利」とする学説も登場している。前記の情報コントロール権が『管理』に重きを置いているのに対し、こちらは自律的な自己決定権を重視している。

 ■プライバシー権と公共の利益は対立概念

 と、こんな解説を書いていると、よけい権利意識に目覚めてしまうかもしれないが、現実はそう甘くない。プライバシー権が阻却される(却下される)ケースが、多々あるからだ。その代表とも言えるのが、いわゆる「公共の利益」というヤツである。
 ヨーロッパ人権保護条約第八条第一段は「何人も、私生活及び家族生活、住居及び通信を尊重される権利を有する」としてプライバシー権を認めている。が、第二段では「この権利の行使に対する公的機関による介入は、それが法律によって定められているとき、若しくはそれが民主的社会において、国の安全、国の健全な経済、秩序の防衛及び刑事犯罪の予防、健康若しくは道徳の保持又は他人の権利及び自由の保障のために必要な措置を行うとき」には、第一段で規定した権利に対する制約が可能になるとされている。
 行政(公共の利益)とプライバシー権の対立は、神戸や高知のエイズパニックに見ることができるだろう。マスコミも、いわゆる国民の「知る権利」にこたえるためHIV感染者のプライバシー権への介入を行なったわけだ。
 逆に、行政の不介入への理由付けとして、行政からプライバシーの問題について主張されることもある。薬害エイズの原告本人が行政に対して被害実態調査の要請(ぜひウチに見に来てください)を行なった際、「プライバシーの問題がありますから」と答弁した官僚がいた。笑い話のようなホントの話だ。行政側が何もしないことの理由付けとして、プライバシー権が持ち出されることは日常化していると言えるだろう。
 神戸や高知のエイズパニックをもたらした行政の介入は悪しき前例だが、行政の介入がいつも悪いとばかりは限らない。アメリカでは、工場での健康被害を調査しようとした行政機関が、会社側の従業員のプライバシー権を盾にした拒絶にあうという事例も存在する。
 いずれにしても、プライバシー権と公共の利益は対立概念だということは、おさえていてもいいかもしれない。そういう意味では、自律の概念の一つであるプライバシー権は、小さな政府を志向しているとも言えるのかもしれない。プライバシー権の保護を主張しながら、福祉の充実など行政のリーダーシップ(大きな政府)を要求するのは、論理矛盾かもしれないということだ。

 ■情報公開などの「知る権利」との対立も争点

 情報公開などの「知る権利」との対立も、大きな争点であろう。行政の文書にだって、個人名(プライバシー)が記載されている文書はたくさんある。どこまでの個人情報なら公開の対象にし、どこまでなら非公開かの議論もしなければならないハズだ。実際、薬害エイズでの行政文書だって、プライバシーを盾に提出を拒まれてきたし、公開された文書には多くのスミが入れられていた。
 もちろん、公人のプライバシー権が制限されるとの論点もあるが、基本的には情報公開とプライバシー権の保護は対立概念であることはおさえておきたい。やみくもに、あるときは情報公開を要求し、あるときはプライバシー権の保護を主張するのでは、論理矛盾である。もっとも、情報公開も自律のための手法と考えれば、どちらも目的は一緒で時代の流れとも言えるかもしれない。いずれにしても、概念の整理は必要だろう。

 ■便益の確保のためにどこまで開示するか

 新しく制定された感染症予防法は、感染者のプライバシーに配慮した法律になったと言われる。つまり、前述の言に従えば、公共の利益が制限される結果になったと言ったら、言いすぎだろうか。特定感染症予防指針では「エイズ発生動向調査の強化」として「法に基づくエイズ発生動向調査の分析と同意の上で行われる病状に変化を生じた事項に関する報告である任意報告による情報の分析も強化すべきである」とされている。が、そのような強化がなされたとの話は聞かない。むしろ、発生動向調査の信頼性は著しく低下しているというのが実情ではないだろうか。
 どこまでのデータを得るために(また、ダブルカウントの排除などデータの信頼性を確保するため)どこまでプライバシーを制限するのか(しないのか)についての議論はない。議論がないので、プライバシー権についての明確な規定も線引きもない。その結果、感染者は自分たちの医療情報の利用(開示)に不安を感じ、腰がひけた疫学調査は、どんどん役立たないものとなっていっている気がするのだ。
 新しくHIV感染者が含まれることになった障害者福祉においても、その運用には、十分すぎるほどプライバシーに配慮されている印象がある。実際、過去に障害者のプライバシーが漏洩されたという事例は聞いたことがない。感染者自らが望んだことであったにもかかわらず、プライバシー漏洩への疑心暗鬼は拭い去ることができないようだ。ならば、どこが不安に感じる点なのかといった、より良い制度改正等へ努力するならともかく、少しでも不安があるから『ダメ』の烙印を押してしまう。プライバシーの完全な保護と福祉などというのは、両立するはずはないのだ。どこまでの便益の提供を受け、そのためにどこまでのプライバシーを開示するか、といった議論(規定)が必要なのに、こちらもそうした議論は出てこない。

 ■調和を図るためにも線引きが必要

 検討されている個人情報保護基本法案は、民間事業者にばかりプライバシーの保護を強制し、肝心の公的機関のプライバシー保護について規定していないとの批判がある。医療情報についても規定されないおそれがあるという。
 あいまいなものをあいまいなままにしておくのが日本流なのかもしれないが、それもそろそろ限界になっているというのが昨今の状況だろう。
 あいまいであるがゆえに、おそれが生じ、躊躇が起きる。なにもプライバシー権か公共の福祉か情報公開かというゼロか百かという議論をすべきと言っているのではない。その調和を図るためにも線引きが必要だし、プライバシー権についても明確にすべきではないかと思う次第だ。

 私に対し「あいつはホモだ」という誹謗中傷がなされた時期があった。それを直接聞いた私の友人は「それはプライバシーの侵害だ」と抗議したという。ちなみに、私はヘテロセクシャルである…(苦笑)。

  [草田 央]
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