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薬害エイズの真相究明を叫ぶのは誤りだ

草田央 

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月29日、薬害エイズの責任を追及してきたHIV訴訟の和解が成立した。和解内容については、良い面も悪い面もあるが、原告らの選択として尊重されるべきだろう。そして、二千人にも及ぶHIV感染をめぐる係争事件が終結し、日本のエイズ状況は新たな一歩を踏み出したハズであった。
 ところが、いま叫ばれているのは「薬害エイズの真相究明」だ。訴訟中に真相究明が行なわれるのならばわかるが、和解成立後になって真相究明というのもナンセンスな話だ。しかも「真相はまだ分かっていない」と叫べば叫ぶほど、「あぁ薬害エイズの真相は分からないんだ」という認識が市民の間に浸透しつつある。けれども、謝罪は行なわれ和解は成立している。「あれ!? 真相も分からないのに、同情から謝罪してもらって、お金だけ取ってったってこと!? これが“歴史的大勝利”という意味だったんだ」と感じ始めた人は意外と多い。それどころか、国会の参考人質疑でも加害者たちに一方的な弁明をさせているため、「やっぱり血友病患者の感染は仕方がなかったんじゃないか!?」という印象を持つ人が再び増え始めている。「血友病患者の感染は仕方がない」とか「お金をもらっていた安部英が悪い」というのは提訴前の社会の認識と符合する。7年もかけて積み上げてきたものを私たちはすべて失ってしまったのだろうか。思い返せば、94年に横浜で行なわれたシンポジウムのタイトルは『薬害エイズの真実』であった。昨年7月の『人間のくさり』では、「薬害エイズの真相は明らかだ。だから“あやまってよ”」と叫んだハズだった。10月に裁判所から出された所見でも、六年間にも及ぶ膨大な証拠調べの結果、厚生省の主張を退ける事実認定をしている。薬害エイズの真相は明らかだ。だから、そこから導き出される“責任”が認められ、和解が成立したのではなかったのか!? 一体どこでボタンの掛け違いをしてしまったのだろうか?

年10月20日、裁判所の所見が出されてから初の厚生省交渉が行なわれた。裁判所の所見を認めるのか? 認めないのか? の判断を厚生省に迫ったのだ。ダンマリを決め込み責任を認めない厚生官僚に対し、「厚生省の今までの主張は裁判所によって退けられました。自分たちが行なっていた主張が間違いだったのではないか? との視点に立って、事実関係の再調査をする動きは厚生省内にないのですか?」との声が飛んだ。
 今年1月に厚生大臣に就任した菅直人氏は、裁判所の所見を認めるのか? 厚生省の加害責任を認めるのか? への回答を留保し「事実関係が明確化されれば、どのような責任があるか、おのずと明らかになる」として、「HIV感染に関する調査プロジェクトチーム」を発足させた。一転して、それまでの情報隠蔽ではなく、今度は情報開示が和解成立の駆け引きに利用されていくことになる。2月16日の厚生大臣の謝罪で、国の責任の社会的認知度はピークに達した。しかし、言質を取られない巧妙で曖昧な表現の「おわび」が繰り返されていく。当時の資料を選別して用いながら、ある時は外資系企業を和解に応じさせるため“日本の特殊事情”が強調され、ある時は負担増となるミドリ十字や日本臓器を屈伏させるため立入調査での虚偽報告が喧伝され、和解の駆け引きのための“真相究明”が展開される。責任を認めるための手段であったはずの資料公開が、「資料を公開したことに意義がある」として目的化していくことになった。そして加害責任が明確に認められないまま、最後は「救済責任」に基づく和解に収束していくことになるのである。調査プロジェクトチームは、資料を公開・まとめただけで、薬害エイズを引き起こした原因を何ら説明することはなかった。そして今や「研究班が悪かった」との主張に落ち着き、いったん認めてしまった国の責任を免罪させようとしているように見える。

解調印後にやらなければならないのは、確認書の内容を煮詰めていく作業ではなかったのか。「救済責任」とは何なのか? 加害行為があるからこそ「救済責任」が発生するのではないか? とか、「拡大責任」は認めたようだが「発生責任」についてはどう考えているのか? とか、発症手当の認定基準・診断メンバーはどうするのか? とかいうことを、被告と交渉していくべきであった。
 国会でやるべきなのも、昨年10月の第一次所見に関して、細部にわたり厚生省の認識が問われたように、和解の確認書においても厚生省の認識をまず問うべきではなかったのか。その上で例えば“加害責任”を厚生省が認めないと言うのならば、その根拠となる資料の提示なり関係者の証言を求めるのだ。厚生省が所見で指摘された事実関係や責任を認めるというのならば、当時の意思決定は誰によって行なわれ、誰の責任に帰せられるのかの説明を厚生省に問うべきだ。その上で、当時の責任者の弁明を参考人招致なり証人喚問なりで聞くべきだったのではないか。そして、加害責任を認めさせ、その加害責任に基づく被害者らの現状回復を行なうという確約を閣議決定なり国会決議でするべきではなかったのか。
 しかし、国会で行なわれたのは、裁判で積み上げてきた前提を議論することなく、ゼロからの出発であった。参考人質疑は、当時の責任者としての責任を前提とせず、一方的な弁明をさせることにより、事態はマイナスへと進んでいく。再発防止のための真相究明という視点を欠き、ひたすら原告を納得させるための真相究明でしかなかった。“真相究明”という、あまりにも漠然とした目的のみが掲げられ、厚生省の調査プロジェクトチームの報告と同様、何らかの結論を見いだそうとはしていない。

年暮、「真相というのは、芯のないタマネギみたいなものなの。だから真相究明は気を付けてやらなくちゃ駄目よ」と忠告してくれる方がいた。今は、まさに「むけばむくほど分からなくなる」という状況が意図的に演出されている。
 “真相究明”も、いったい何を何のための“真相究明”なのか? を考えなくてはいけなかった。
 「あなたは、この日、何をしていましたか?」「いえ、私にはアリバイがあります」などという“真相”を私たちは知りたいのではないし知る必要もない。“徹底した真相究明”などという枝葉末節な事実関係など意味がないことだ。私たちが知りたいと欲し、知らなければならないのは、薬害エイズという大量殺戮を、誰が(個人責任の追及)何のために(殺人の動機)ということではないのか。それが判明してこそ、真の再発防止が達成できるのである。
 では、本当に「真相は今も分からない」のだろうか。私は、そうは思わない。当時の責任者の名前は判明している。「殺人の動機」も、裁判で明らかにされた事実や、公開された資料などから、推測することは可能になっている。もはや私たちは、真相究明を目的とするのではなく、それらの責任者に自らの責任を負わせること、判明した構造的欠陥を抜本的に改革することを目的としなければならないはずだ。その過程において、必要に応じた真相究明が手段として用いられることはあるだろう。しかし、真相究明そのものを目的とする段階に戻ってしまってはならない。

護団は、政界ルートをあぶり出そうと、「謎の一週間」だとか「天下りが問題だ」などといった政治的プロバガンダを繰り返す。確かに、政治家が一定の役割を果たした可能性は高い。しかしながら、確たる証拠を持っているわけでもなく、そのような証拠が出てくるとも思えない。ひたすら政治的かけひきを演じている様に、正義は感じられない。せいぜい出てきたところで、政治スキャンダルになるだけで、はたしてそれにどれほどの意味があるのだろうか。
 衆議院議員の持永和見氏には、当時の薬務局長としての責任を問えばいい。汚染製剤の返送で、例外輸出許可を与えたのは当時の厚相だっだ林義郎議員である。通産大臣の関与も、書類上明らかだ。「例外輸出許可」という政治的判断を行なった政治家たちは、その根拠である危険性について認識していたとみなされる。それらの政治責任を正面から問うのでは、なぜダメなのか。
 官僚たちが、国民のパニックをおそれ、ひたすら危険情報を嘘までついて隠蔽してきたことも、明らかとなっている。これらの厚生省の方針は、研究班とは無関係に、厚生省内部で検討され決定されてきていることも、資料や事実関係から明らかだ。官僚の発想は、情報をコントロールすることによって人民統制を行うことなのだ。ひたすら時間と年月をかけ、ゆるやかな変化を求めるのが行政だ。さらに言えば、製薬企業の育成も厚生行政の重要な役割であるから、危険への対応策も、企業の利益を害さないよう綿密な調整のもとに、時間と年月をかけて行なわれるのである。利益獲得を目的とする製薬企業が願うのも、危険性を知られることなく、利幅の大きい汚染製剤を、できるだけ永く売り続けたいというものだ。官僚と企業の利害は一致している。そして、官僚と企業の意図は、薬害エイズ対策において大成功をおさめたのだ。その大成功の当然の帰結として、大量の被害が生じた。この構図が、何度も薬害を起こし続けている原因であり、真相ではないのか。
 したがって、「天下りによる癒着が悪い」として天下りを禁止したところで、利害が一致している限り、官民そろって薬害を起こす方向に向かい続けることは必至である。「権限が明確でない研究班に任せてしまったのが悪かった」として研究班の在り方を見直したところで、アリバイ作りの研究班に責任転嫁できるだけ。より一層、責任なき官僚の人民統制によって薬害が誘引されるだけではないのか。

回の和解で国が支払う一時金は、当然のことながら税金から支払われるものである。
 私たちは、いったいどのような理由で、税金が用いられるのかを説明してもらう権利があるはずだ。国に責任があることは、わかったとしよう。しかし、国(行政)というのは、人(官僚)によって構成されている。国の責任というのは、意思決定を行なってきた部署なり、最終的には担当者の責任に帰せられるハズである。国家賠償法も、支払った賠償金を過失責任のある官僚に求償できると規定している。
 少なくとも、人の命を左右する意思決定にたずさわった者には、それなりの責任と覚悟が必要なはずだ。
 被害が出ることを予期しながら、官僚のみが信ずる国策が国民の同意なく遂行されたのだ。この意思決定は、国民を根本から裏切るものであり、未必の故意ともいうべき大量虐殺の殺意に通ずる。全財産を国に差し出すぐらいの責任が問われてしかるべきだ。
 もし、責任者である自分に責任がないと言うならば、それ相応の理由をつまびらかにし、誰が責任を負うべきなのかを明らかにするべきだ。真相究明は、こうした責任を明確化するということでなくてはならない。それでこそ、厚生行政を国民ひとりひとりの命に目を向けさせるという抜本的改革が可能になる。

 もう、真相究明という名の茶番は、うんざりだ。


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