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エイズ・ボランティアとは・・・

草田央 

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 最近、私のまわりで「ボランティア論」がかまびすしい。それだけ様々なボランティアの方たちと知り合う機会が増えたためでもある。ボランティアを志す人も増えており、それ自体は歓迎すべきことなのだろう。が、「ボランティアって何をしたらいいの?」という人の少なくない。ある意味で、既存のボランティア団体のアンチテーゼで始まったLAP。ここらでエイズ・ボランティアについて考察してみるのも悪くはないだろう。

 まず、イメージしやすいところで、エイズ患者のケアというのがある。入院中の、もしくは自宅療養中の患者の世話である。食事の世話からシモの世話、薬の管理から洗濯や入浴等々の援助があるだろう。基本的に看護婦や患者の親族が中心になって行われるが、それだけでは人手が十分ではないのが現状だ。それをサポートし、ある時は主体的に関与していく必要がある。末期療養であるから、精神的・肉体的負担は非常に大きい。疾病に関するある程度の知識も要求されるだろう。
 次は、発症前の感染者も含めたカウンセリングについて考えてみたい。HIV感染症はガンと異なり、一進一退の中で病状を進行させていく。それゆえ、E・キューブラー・ロスの言う「死への諸段階」(衝撃と否認、怒り、抑鬱、取り引き、受容)を必ずそも一方方向に進んでいかないとも言われている。感染の告知から死に至るまで、あらゆる段階でそれぞれの状況に応じた精神的サポートが必要だ。これは何も感染者本人に限らず、その家族のカウンセリングも重要であることを忘れてはならない。いずれも“生死”の問題であるがゆえ、豊富な経験と専門的知識を要求される。カウンセラーやソーシャル・ワーカーの指示を仰ぎながら協力していくことが望ましい。
 以上の2点がおそらく欧米で言われるところの「バディ」の役割であろう。NHKで紹介されて以来、日本のボランティア団体がこぞってバディ制度をスタートさせている。その実態は知るところではないが、ブームの中で安易に始められてしまったのではないかとの危惧がある。専門的訓練を経ないでバディになっている人はいないか?バディとは決して単なる「友だち」ではないと思うのである。見ず知らずのボランティアが「さぁ、今日から私があなたの『友だち』です」と言っても感染者は戸惑うばかりだろう。また、「当団体ではあなたの『友だち』を紹介します」と宣伝したところで、それを望む感染者はあまりいないのではないか。
 たしかに、多くの感染者は差別や偏見に悩んで孤立している。が、彼らが望んでいるのは、いわば普通の生活が送れることだ。普通の生活で知り合った人と、HIV感染と無関係に親しい関係を築けることが理想なハズだ。決してHIV感染を前提としたボランティア団体の中では、結果として友情が芽生えることはあっても、『友だち』制度は成り立ちにくいように思うところだ。

 電話相談は、いまや多くのボランティア団体が積極的に行なっている活動の一つである。その果たしてきた役割は少なくない。が、かつてNHKで行なわれた『電話相談』や各種パンフレットの内容を見てると、誤解や不安を広めてしまう結果となることも多々あったのではないかと感ぜざるを得ない。
 電話相談で重要なのは、まず相談者の不安を静めることだろう。そして、相談者が正確な判断が出来るよう必要最小限度の情報を提供することであろうと考える。電話相談員の陥りやすい誤りとしては、相談者の不安を無視して自分の価値判断を押し付けてしまうこと。必要以上の情報を提供して、相談者の不安を逆にかきたててしまうこともありうる。
 エイズの電話相談といっても、相談者の不安の原因は必ずしもエイズに限定したものとは言えない。完璧なカウンセリングを行なうなら、精神分析にも匹敵するノウハウが必要となってくる。いくらなんでも、一般のボランティアにそこまで期待するのは無理。とすると、あくまで『聞き役』に撤する程度しかできないことも認識しなければならない。少なくとも電話相談は、感染予防を実現させる活動ではないことに注意しなければならない(結果として感染予防につながることはあるかもしれないが)。

 感染予防キャンペーンも、ボランティア活動の重要な分野であろう。ただ、日本の現状を考えるに、あまりにもそればかりに突出していることが問題である。医療の診療体制が整わず、職場の雇用差別も存在するなかで、予防ばかりを強調しても効果はあがらない。
 医療機関の開拓も、ボランティアの活動におうところが大きいのが日本の哀しい現実だ。医療機関の診療拒否の理由の一つにあげられるのが経営上の問題である。このことを考えると、医療機関を診療する機会の折りに「先生のところではエイズ診療を行っていますか?」と尋ねているのも一法ではないか!?
 他の患者がエイズ診療への不安を感じていないことを医療機関に積極的にアピールしていく必要性である。診療拒否を行うような医療機関はボイコットするっくらいの社会運動がおこることを期待したい。
 職場の雇用差別対策も、障害や疾病による雇用差別を禁じることを社内で明文化することが急務である。自社の労組等を通じて実現に尽力することはできないか?
 こういった活動は、なにもボランティア団体を通じなくてもできる活動である。が、ボランティア団体に所属している人の中でも、まだまだ家族や友人とエイズについて話すことさえ躊躇する人がたくさんいるのである。「なぜ日本ではカミングアウトする患者・感染者が少ないのか!?」と言う前に、ボランティアがボランティアとしてカミングアウトする必要性を強調したい。

 日本ではエイズに関する3つの裁判が現在行なわれている。そのうち2つは薬害による感染被害であり、残りの1つは不当解雇となっている。こういった社会的問題にかかわっていくボランティアが、まだまだ少ないように感じている。
 薬害エイズは、製薬企業と国の医薬品に関する完全性軽視を問題にしている。原因がしっかりと究明され、それにともなう構造改革がなされなければ、必ず別の薬害が生じることは必至である。国民一人ひとりの課題であるはず事件なのに、単なる同情論が蔓延していることは嘆かわしくも思う。
 不当解雇訴訟も、障害や疾病、もちろん性別や国籍等の差別の一端があぶりだされたことにすぎないものだ。この裁判を契機に、企業経営者の側は積極的に対策(ある意味で、いかに穏便に辞めてもらうか)を模索しているが、誰もが雇用差別の対象になりうる労働者の側の関心が薄く感じられるのも不思議である。
 いずれの裁判でも、そこには原告である患者・感染者が存在する。そして、裁判の結果は、他の多くの患者・感染者へ多大な影響を及ぼすものだ。にもかかわらず、こういった患者・感染者が直接声をあげていることへの支援を無視したかたちで「何かしてあげたいので、感染者を紹介してください」とか「患者・感染者の存在が見えず、彼らのニーズが分からない」と主張する人が多いのだ。そういった人たちは、『すぐ隣にいる』感染者の存在に気がつかないだけであり、感染者の声に耳を傾けないだけではないのか!?

 日本は制度としてエイズ対策が非常に遅れているため、行政等への陳情・要請行動も非常に重要である。が、そうした活動を展開しているボランティア団体は、僅かしかない。署名集め藻、多大な困難を伴っている。
 その一方で、「難しいことはゴメン。僕たちは楽しいことだけやっていく」と公然と主張するボランティアも多い。来年の国際エイズ会議に向けて、様々なボランティア団体の派手なパフォーマンスは加速されるだろう。そして国際会議が終わった後には、何も変わらない日本の姿が横たわっているような予感もするのだ。

 ここにあげた以外でも、様々な活動があるだろう。お金集めや募金等も重要な活動だ。団体の運営ということになれば様々な雑務は山積みだし、情報収集や宣伝・広報という活動だってある。
 だが、日本の患者・感染者のほとんどはボランティア団体に所属していない。それは、彼らの要求を満たす信頼できる団体がほとんど存在しないことを意味している。また、いったん加入した患者・感染者の中にも、自分たちの意見が通らないことにいらだちを覚え、離れていくものが後をたたない。このこたを各ボランティア団体は真摯に受け止めなくてはならないだろう。
 日本のボランティア団体の不幸は、いまだ専門家の参加が少ないことにある。そもそもカウンセラーやソーシャルワーカーといった土台が希薄なところであったため、素人の集団がアメリカの団体の活動を模倣しながら、ボランティア活動の有り様を模索している。そして歴史の一番長い団体でも、せいぜい5年という短さしかないため、築きあげてきた経験というのもほとんどないのが現状であろう。
 けれども、エイズ以外に目を転じてみれば、障害や疾病・老人看護、被差別等々のボランティア団体はたくさんあり、その歴史も長く成果も大きい。エイズ・ボランティアは、もっと他団体のノウハウを学ぶべきだ。
 エイズが巻き起こした様々な問題は、実はエイズ登場以前から存在したもので、なにもエイズ固有の問題ではない。ならば、もっと視野を広くして様々な団体と連携していく必要があるだろう。最近、私がエイズボランティアの方たちとお会いしてつとに感じることは、あまりにもエイズばかりに目を奪われて、実はエイズすらも見えなくなっているのではないかということなのだ。


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