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Aさんのこと


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この夏、私は一人のエイズ患者と出会った [みちこ]

 この夏、私は一人のエイズ患者と出会った。彼はタイ人で35才の男性。彼と一緒に過ごしたのはたった3日間であったのに、彼は私にとって忘れられない人となってしまった。彼は逝ってしまった。が、自分の代わりに本当に素晴らしい置き土産を私たちの心の中に残して行ってくれた。
 Aさんはタイ北部の生まれである。何年か前かは不明だが妻と共に日本へ出稼ぎによってきた。職業はコックでタイ料理屋で働いていたと言う。しかし、日本でエイズが発症し、結核となった。同じ頃にエイズを発症した妻は、日本のあるボランティア団体の力でタイへ帰国できたが、彼の結核は悪化し、入院治療を必要とさえする状態であった。しかし、英語も日本語も全くわからない彼が、日本の結核予防法を知るはずがない。彼は、自分に行われている治療に対し、自分は払うお金がないと悩んだらしい。ある日、治療費を払う為に働こうと病院を出てしまったのだ。しかし、彼の身体はもはや労働に耐えられるものではなかった。結局、状態は悪化し、友人に付き添われて元の病院を訪れるが、一文なしでビザの切れた外国人、しかも白人ではない、タイ人の、そしてエイズを発症している彼に、病院側は冷たかった。慣れない異国の地で、頼るものも何も無い、病院の不安に打ちのめされた人間に対し、病院側が投げかけた言葉を私は一生忘れることは無いだろう。“仮病だ”これが医療従事者である。彼は日本語を理解できない。だが、この言葉の冷たさは、きっと感じられたに違いない。こうした経過を経て、彼と私たちが出会う頃には彼の目はすっかり警戒心を帯びたものとなってしまっていた。
 彼が私に初めて会ったときもそうだった。彼の骨と皮だけの身体も私の目をひいたが、それよりも何よりも心をつかれたのは、彼の目は不信感にあふれていた。彼はエイズだけでなく、孤独と不信感にも侵されていた。これこそ、正にエイズの最も恐ろしい症状であるのだ。そして、更に、彼の身体は長期の臥床によって固まりつつあったが、それは身体だけではなかった。彼は、孤独を分かち合い、感情を共有するといった人と人との交流を失っていた。その結果、彼は、心までも硬化させていたのだった。
 彼と会って、私は看護婦として彼の身体的状態を良好に保つよりも、まず、彼と同じ一人の人間としてありたいと思った。人間として、互いの生のぬくもりを伝え合い、確かめ合って、彼に“生きている”事を感じて欲しいと思った。その為に、私は彼が“気持ち良さ”つまり“快”を感じられると思われる関わりを持つことを心掛けた。身体を熱いタオルで拭く、気持ちの良い寝床を整える、手を石鹸で洗う、彼の食べたい物を食べさせる、マッサージを行う、等々。もちろん、こららは看護婦としての立場からみても、彼のその時置かれていた身体的状況から言っても有効なものであったと考えられるが、ただ一つ、違う点があった。それは、これらの援助を通じて、彼が何よりも“生の実感”を得られる様にと、それを第一の達成目標とした点であった。そして彼と向かい合う時、私の心の中の思い〜私はあなたとこの時を共有したい、あなたに少しでも生きていることを楽しんでもらいたい〜が彼に向かって流れていく様にと願って関わった。又、マッサージを通じて、人のぬくもりが伝わります様にと祈った。
 そして、彼は合って3日後に逝ってしまったしかし、大切なことは生きる、死ぬ、と言ったことで事ではなく、生をどの位味わうことが出来たかという事ではないか。彼が最終的に、どの位、生を味わえたか、という事はわからない。だが、残された私たちにとって慰めは彼がわがままを言いながら死んでいった事である。重かった口が開き“あれが食べたい”“ここをもんでくれ”と訴えるようになった事。うつろでおびえた様な目が、信頼の色をたたえて私たちを見つめるようになった事。そして忘れられないのは、汗ばんだ彼の手をお湯と石鹸で洗った後、その石鹸の香りをかいで彼と二人で思わず笑った事。その後、彼はその手をいつまでも胸の上で大切そうに組んでいた。石鹸の香りを胸で抱くように。一つ一つの瞬間がまるで昨日の事のように蘇る。そう、私が彼を忘れられない、彼と私の間にはレッテルやカテゴリーに支配されたものではなく、ただ、お互い、独自な人間としての交流があったからなのだ。それは心の琴線にふれるものだった。

 Aさんは沢山の置き土産を残していったが、それはいつまでも私を満たしてくれるだろう。心の琴線をふるわせながら。


Aさんの訃報に接して [勝島信夫]

 Aさんが亡くなったことを聞いたとき、最初に思ったことは、「Aさんは、日本という国に対してどのような気持ちを抱いて亡くなったのだろうか」ということだった。  そのことを考えると苦しい気持ちになる。
 おそらくそれは、我々が想像できないくらい絶望と後悔と故郷への思いに満ちたものではないかと思うからだ。言葉の通じない国に、旅行ではなく行くということは、生活上の必要性はあったにせよ、それはある程度希望があったからではないかと思う。
 日本に行けば、タイ国とは異なった生活とのその後の彼の未来にとってプラスになる何かがあると思ったから、彼は日本に渡ってきたのではなかろうか。
 しかし、現実には、西洋人以外には著しく理不尽な日本の労働状況と、エイズとの闘いと、病院の冷酷な対応と彼は対しなくてはならなかった。

 それも言葉の通じない国で。

 B病院という、タイ国に比べて巨大で近代的な病院がとった仕打ちを、Aさんはどのように感じただろうか。
 それはちょうど、日本という国が、Aさんに一貫して取り続けた姿勢ではなかっただろうか。
 Aさんが死の際の病棟で、タイへの帰国を望んでいたのは、死を悟っていたためではなく、日本へ来たことへの後悔があったからなのではないか。
 もう一刻もこのような国にはいたくなかったからではないか。
 Aさんは結局、日本で亡くなり、骨になってもまだ故郷に帰れないでいる。
 その人が亡くなった後に、その人が生きている間に何かしてやれなかったかと後悔することはたやすい。
 しかし、その人が生きている間に、そのことを行うことはとても難しいことだ。
 それは、その人が死を迎えるとわかっている状態でもそうであることを、僕は体験から知っている。
 自分の日常が優先してしまうのだ。
 それでも、Aさんの死に接して、何か自分ができることはなかったかと思う。
 同時に、ある一人の外国人に対して、あまりに何もしなかった日本という国の国民として、この国を恥しく思う。
 何か、しなくてはと、思う。


バディの必要性を痛感しました [ジーコ]

 日本に出稼ぎにきている外国人の方たちは、病気や怪我をしても「不法残留」ということで、病院にかかることすらできないでいるケースが多いとよくニュースで流れていますね。今回、Aさんのことがあっていろいろ考えさせられました。そのなかでも特に、多くのバディの必要性を痛感しました。


貴重な経験と人のつながりを残してくれました [ヨッシー]

 LAPの清水さんから電話があり、Aさんが亡くなったことを聞いた。
 僕は彼との最後の別れになってしまった瞬間を思い出した。それは彼が横たわったまま、僕に向かって両手をあわせすこしほほえみながら軽くおじぎをしているという光景だった。
 次に彼に会ったのは斎儀場でだった。焼かれる前、彼の顔を見たとき本当に亡くなったんだと実感した。息をしていないとか動かないとかではなく、それはまさしく「ぬけがら」だった。このとき彼の身内の人は誰もいなかった。大勢の人がいたとはいえ、やはり喜ばしい見送られ方ではなかったと思う。
 彼はタイに帰りたいと行っていた。出来ることならもう一度体調を整えさせて帰国させてあげたかったが、今となってはもうそれもかなわぬ夢となってしまった。
 僕自身一人で立ち上がることができないほど衰弱している人に付き添ったのは初めてで、それだけにぎこちなくたいしたことができなかった。彼が亡くなったことはとても残念だったか、たくさんの人の心にさまざまなものを与え、そして貴重な経験と人のつながりを残してくれました。
 あらためてご冥福を祈ります。


Aさんはあまりしゃべらなっかったけど [魚躬<ウオノミ>]

 両眼をカッと見開いたまま、彼は逝った。  鬱陶しさに何度も引き剥がしては、また装着させられた点滴やらなんやらの管の中に、彼の見開かれた両眼があった。目を、閉じた方がいいと思った。
 枕元に行った。まぶたに触れて、目を閉じようとした。しかし、彼の両眼は大きく開かれたまま、そのまぶたを閉じようとしなかった。何度やっても同じだった。
 彼の目を見ながらこんなことをくりかえしているうちに、これは閉じない方がいいかなと思うようになった。
 で、やめた。
 彼の死の知らせを聞いて何人かの人がやって来た。
 枕元に近づき静かに佇んでいる人がいた。何かを囁いている人もいた。
 でも中には、距離をおいて見下すように立ち、とてもとても事務的な話をし始める人達がいた。しかも声高々に。それが彼らの接し方だと思えるようになったのはずいぶん後だった。その時はとても許せない気分だった。「お前らしゃべるな。」と叫びたかった。でもやめた。やめてよかった。せっかく寝ているAさんに悪いし。
 Aさんは最後まで、あまりしゃべれなかった。
 彼は日本語も英語もほとんど解さないらしく、僕たちの知らない言葉でのみ話をした。言葉が通じないとわかると、ほとんどしゃべらなくなってしまった。食事やトイレでさえも僕たちが尋ねなければ、その欲求を表すことをしなかった。いや、僕たちが尋ねた時でさえも、その多くを彼は辞退していた。
 これは、言葉の問題だけではなかった。はじめは彼がとっても遠慮深い人なんだと思った。あるいは文化的な問題なんだろうと(僕は勝手に)思った。でも、事情がわかってくるにつれて、もう簡単に人を信じられなくなっていたんだなってことがわかってきた。それは日本での数年間の生活、特に医療機関での遇され方などが問題だったようだけれども、ここには詳しく書かない。

 もちろん言葉は重要だった。吉岡忍さんの紹介で通訳の人が来た。
 言葉が通じて、彼は少し明るくなった。でも「何かほしい」「何かして欲しい」って聞くと、両手を合わせて「こんなにしてもらって、もう十分」と言う。僕たちは照れ隠しに「何言ってんの」と言うけど、本当に何もしていなかった。
 でも、だんだん彼もわがままになっていった。マッサージをしようか?って言っても、いいと言っていたのが、ここをして、あそこをして、って言うようになった。食べ物も故郷の食べ物を食べたいと言うようになった。
 わがままになるにつれて、彼はだんだん自分のまんまになっていった。遠慮とかなんたらとかがAさんの回りからぽろぽろ剥がされてきた。自分勝手じゃないわがままになっていった。いいなぁ、Aさんのことがとっても好きになっていった。
 彼と一緒にいる僕たちの分もぽろぽろ剥がされていった。
 時々、自分勝手な人たちが来て、声高々にしゃべって帰って行った。Aさんもうるさそうだった。「静かにさせようか」って目と手で聞くと、「いいよ」って顎と微笑みで応えた。

 彼がずっと言ってたことは「故郷に帰りたい」ってことだった。これは本当にずっとずっと言っていた。
 入院してからは彼のその気持ちは一層強くなった。
「(故郷の)家に帰りたいなあ」
−今はまだだけど、治ったら帰ろうね−
「列車に乗って帰る」
−列車じゃ帰れないんだよ−
「でも、列車に乗って帰る」
 列車じゃ帰れないんだよ、ってその時は思った。けど、もし僕が彼と同じ肉体状態、精神状態だったら列車に乗って帰れると思えたんじゃないかな、なんて今は思う。
 ちょっと恥ずかしいけど言っちゃうと、彼はあの時、祖国にはいたんじゃないかな、って思う。それから後の彼の話に出てくる飲みたいもの、食べたい物などが全部、固有名詞で、しかもかなりローカルなものだった。僕たちで言えばポッキー食べたいとか、ジョア飲みたいとか、そんなの他国人にしてみれば知るかってやつだった。これを彼の妄想だとか、コミュニケーション能力の問題だとか言うことも出来るけど、でも彼は本当は祖国にいて、しかも小さい頃に戻っていたんじゃないかなって僕は感じる。
 呼吸が停止するほんの10秒前に言った言葉は「もう大丈夫」だった。これが彼の最後の言葉になった。両脚と背中をマッサージしていた僕たちに言った言葉だと思って手を休めた。  でも、実はこれは僕たちに言った言葉ではなくて、本当に「もう大丈夫」だったのかも知れない。
 もう故郷に帰ってきたから大丈夫。
 故郷の空や山や母や父や姉や幼なじみや川やなにやらかにやら、しかも時間を越えて見ていた両眼だったのかも知れない。だから、閉じたくなかったのかも。


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